今まで隠していたわけではないが、
メモを取るときの私は、とても字が下手だ。
あとから読み直すのにも、我ながら苦労する。
ゆっくり書けばそれなりの字が書けるが、
メモするときは、どうしても気が急いてしまい、
文字が、跳ねる、躍る、クチャクチャになる。
脳みそから滝のように文章が出てくると、
それに追いつけない手の遅さにイライラする。
「早く、しかも、きれいに書きなさい!」と、
目でにらんで、動きの悪い右手に命令している。
でも、手は言うことを聞かない。
誰が悪いんだ?責任者、出てこい。
”きちんと手を動かさない自分が悪い。”
そのことに初めて気がついて、ハッとした。
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この間も、娘たちと話をしていたとき、
話題とは関係のない単語が口をついて出たので、
「ママ、何言ってるの?」と笑われた。
違う。私が言いたかったのは、別の単語。
頭ではしっかりそれを考えていた。
でも、口では違うことを言う。
それは何故か?
口が悪いのではない。
きちんと口を動かしていなかった私が悪い。
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昔から、行動ががさつと言われた。
たとえば、親に「皿を洗え」と言われて洗う。
ちゃんと動いているんだから
いいじゃないかと思った。
でも、皿を洗うときにガチャガチャ音を立てるのは、
音が自然に立つからしょうがないと思ってた。
「五月蠅い」と言われても、どうしようもない。
「文句は、私の体か、皿に言ってくれ。私は知らない。」
と、思いつつ、皿を洗いつづけた。
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思えば私は、手を動かすときも、口を動かすときも、
かなり無意識にやっていたようだ。
まるで、他人の手(または口)のようだ。
他人に命令するかのごとく
「こうしなさい!」と自分の身体に言いつけ、
また、その通りに動いてくれると思っていた。
で、まれに命令違反があれば、
「何故、言うことを聞かないのだ!」と怒っていた。
ああ、これは、自分の身体ではないか。
自分の意志で、
ひとつひとつ動かすべきところであった。
まったく、逆切れも良いところだ。
身体よ、今までごめんなさい。
なんだか、例えて言ったら、
きぐるみを上手に着ていなかった感じ。
指先まで身体を入れなければならなかったのに、
腕の当たりまでしかつっこまず、
肘から下をぶらぶらさせていた。
カラッポの手袋に、グーチョキパーを強いていた。
無理だよ、それは。
五本指まできっちり入るように、
きぐるみをしっかり着込むのだ。
人間としての生活に、もっと密着するのだ。
うん。これからは、何事も丁寧に行いたい。
「丁寧に書く(話す)」という作業は、
無意識の自動操縦を
意識的に手動に切り替えることだ。
心臓の動きやホルモンバランスなどは
身体にお任せするしかないが、
指を動かしてじゃんけんをしたりメモしたり
言いたい言葉が出るよう口を動かしたり
足を屈伸させるのは私がやらなくてはならない。
そんなことにやっと気が付いた。今頃になって。
意識的に、グーチョキパーをやってみる。
コーヒーカップの柄をしっかりと握ってみる。
あいうえお、と、はっきり、口を開けてみる。
きちんと動かそう、意識的に。
気の抜けた自動操縦は、もう止めよう。
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あ。今、カミナリのような天啓が下りた。
身が震えた。
今までは、言ってみれば、
身体を「でんでん太鼓」のように
気楽に振り回して、遊んでいたようなものだ。
でもこれからは、浄瑠璃の人形師のように
人形(身体)をしっかりと動かしたい。
人形は、動く。
黒子(私の魂)の思いを、そこに込めよう。
それこそが、我を生かす、ということなのだ。
生きる意味が、またひとつ、わかった。