私は、その人の選択したことを尊重する。
けれども、その人がその責任を負わない時、
腹が立つ。
*****
娘たちが小さい頃、
電車で帰省するのは難儀だった。
本人が背負う小さいリュックに
自分の持っていきたいものを入れさせるのだが、
重たかろうがかさばろうが、持ちたい、と
出発前にダダをこねる。
「これは重いよ。やめた方がいいんじゃない?」
「やだ!ジイジとバアバに見せたいの!」
「わかった。でも、ママは持たないからね。
自分で最後まできちんと持ちなさい。」と言う。
重たい本や玩具は、彼女たちの荷物になる。
移動中、子どもたちはだんだん耐えきれなくなり、
「ママ、持って~。重い。」と言う。
けれど、私は、心を鬼にする。
「ママは持ちません。
持てないなら、その辺に捨てて。ママは要らない。」
それらは、本人には大切な物であり、捨てられない。
子どもたちは、半べそで背負い直す。
そのうち疲れて、眠り込んだりする。
娘らが幼児のときは抱っこするが、
荷物+子どもで、重さが半端じゃない。
でも、これは、私の責任だからしょうがない。
荷物が重すぎて、娘の足にまめが出来たときもあった。
そのときは、途中でバンソウコウを買ってやった。
ふうふう運んだ荷物は、結局、帰省中遊ばず、
帰りに再びまた持ち帰ることもあった。
そういう往復を何度か重ねるうちに、娘たちは、
「これは重いし、重要じゃない。持っていかない。」などと、
自分で決められるようになった。
*****
最初は、荷物を持ってあげない自分を
冷たいなあと思っていた。
けれど、もし、「はいはい。」と持ってあげていたら、
自分が奴隷になった気分になる。
それがいやだった。だから、拒否し続けた。
優しいお母さんになれない自分が悲しかった。
けれども、結果オーライだった。
もし「冷たいお母さんと言われたくないから」という
だけで自分の気持ちを押し殺して、
上辺だけの美しい(?)行動していたら、娘らは
いつまでも優先順位のわからない子であったろう。
重いかどうかを体感させるために、
わざと「これを背負いなさい」などと、
スパルタ式にするつもりもなかった。
本人が持ちたいと言うから、持たせたまでである。
図らずも、「自分の選択したことを、
きちんと最後まで責任を持たせる」という
勉強をさせることになった。
もちろん、私だって、何もしていない訳じゃない。
子どもたちのために、座る場所はないか探したり、
昼ご飯の確保、お茶や目的地までの切符は買う。
トイレ休憩の音頭を時々とったりする。
車や人にぶつからないよう、注意もする。
出不精の私が、子ども連れで移動するというのは、
ものすごい重労働だ。気配り目配りで疲弊する。
でも、やるべきことは、やらなきゃなあと思う。
彼女たちの道中の危険排除が、私の仕事だ。
*****
人生の重荷も、これと同じなのではないか?
本当は自分にとって必要なものだから、
自分で選んで背負っているにすぎないのに
「神様、どうして私の荷物は重いのですか。
ひどいじゃないですか。」と言うのは、
「楽したいから、ママ、荷物を持って。」
と同じなのではなかろうか。
神様は、自分の子どもたちに
自分の荷物の中の優先順位は何か?と
問いかけていらっしゃるのではないか。
そして、その中の大事な物を
自分できちんと背負う責任感を
養ってくださっているのだ。きっと。
私は自分で生んだ子どもたちに責任がある。
でも、彼女たちの荷物を背負うのが責任ではない。
「彼女たちの選択を尊重して最後まで見守る」のが、
たぶん、私の仕事なのだろうと思う。