時々、お祈りをする。


子どもの頃、近所の友達に誘われて

日曜学校へ通ったことがある。


大人用のパイプ椅子に座り、

両足をブラブラさせるのが楽しかったので

神父さんの話はすべて馬耳東風だったが、

「主の祈り」だけは暗記してしまった。


今でも、そらんじて言える。


「主の祈り」が役に立ったのは、中学の3年間。

毎日かかさず夜祈っていた。

学校で同級生にいじめられていた時期と重なる。

「我らに罪を犯す者を

 我らが許すごとく、我らの罪をも許したまえ」


祈りが通じたのか、高校で彼らとは離れた。


大人になってからも、時々、寝る前に祈る。

本来は毎日祈る方が良いのだろうが、

うっかり忘れることもあるし、

故意にやったりやらなかったり。


「今日はとても良い一日が過ごせて、

 ハッピーで自分大好き~」の時は、

嬉々として就寝前にお祈りをするのだけれど、

「つまらない失敗をして自分を嫌いになり

 一刻も早く寝たい」時は、お祈りをしなかった。


つまり、神様の前では、

いつだって良い子でいたい私。どんだけ。


けれど、よくよく考えてみれば、

自暴自棄になっているときこそ

祈りが必要なのではなかろうか。

祈りのパワーで、自分が救われるのだから。

やっぱり、毎日唱えようっと。


私が暗記している主の祈り。

ネットで検索すると、ちょこちょこ文面が違う。

小学生だった私の記憶違いか、教会の違いか。

いずれにせよ、私はもう新しく覚えられない

(ボケ進行中ゆえ)ため、

過去におぼえたうろ覚えの祈りを

今夜もまた唱えるだろう。


「天にまします我らの父よ

 願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ

 御国(みくに)をきたらせたまえ

 御心(みこころ)の天にあるごとく

 地にもなさせたまえ

 我らの日用の糧を今日も与えたまえ

 我らに罪を犯す者を我らが許すごとく

 我らの罪をもゆるしたまえ

 我らをこころみにあわせず

 悪より救い出したまえ

 国とお力と栄えとは

 限りなく汝のものなればなり アーメン」


・・・と、口では唱えつつ、

全然違うことを考えていたりする。

「今日はこんな風でしたよ。

 明日はもうちょっとナントカしたいものですよ。

 明日も天気だと良いなあ。洗濯したいし。」

とか、考えてしまうこともある。


なまじ暗記していると、口だけ動いて、

余計なことが頭に浮かぶので困る。


そういうときは、心のつぶやきをうち消して、

「主の祈り」の言葉に集中できるまで

連続で唱えたりもしてる。


できれば、聖フランシスコの祈りも暗記したいが、

長すぎて、まだ無理~。

毎日唱えて、体に覚えさせるしかないかな。


でも、祈りの言葉は、

実は、どんな言葉でも内容でもいいのだと思う。

お経でもイスラムの言葉でも、自作でも。


「自分の心に正直」であれば、

それはすべて神様にダイレクトに届くのだから。