まだ娘たちが今よりもっと小さかった頃、

本屋で赤ちゃん絵本を見に行った。


ある日、平積みのところに「さわる絵本」の見本

(ひよこの絵の一部がふわふわと起毛していたり、

 ワニの絵の一部がザラザラしている)があったが、

娘よりも私の方が夢中で何度も触ってしまった。


見本だから、いくらでも触っても良いのだ。

咎められない状況の中で、存分に触る体験。

ものすごく、安心感。

どうして私が小さいとき、

このような本が近くになかったのだろう?

指でなぞる様々な感触が楽しい。


思えば、私が幼少の頃は、

触りたい物には触らせてもらえず、

触りたくもない物を触らなくてはならなかった

ように思う。

(親が厳しかった、というわけではないと思う。

 全てが禁止だらけの世界に

 自分は住んでいるのだ、と感じた。)


生まれてすぐの赤ちゃんは、

指をしゃぶったり、足をつかんだりして、

自分の存在や、世界を確認するではないか。

その時期の行動は、「かわいい」で許されるが、

幼稚園以降に同じ事をすると、

それは「ダメ」ということに変化するこの世界。


けれど、物事には順序があって、

その人なりの世界認識の仕方が歴然とあると思う。

十人十色の、多少の成長時間のズレは、ご愛敬。


自閉の人間が、自分の両手を揉みながら、

あるいは触りたい物を充分に触るという、

手の感覚を探るための大事な時期に、

「もうそんな遊びをする年じゃないでしょう」とか

「今は授業中でしょう」とか

「そんなものより、こっちをやりなさい」とか

「子どもっぽいことをするな」とことごとく邪魔されたら、

それ以上、どうやって成長や発展が出来るだろうか。


どんなにもがいても成長の機会を奪われ続けたら、

抵抗することにも疲れ、完全な奴隷化になる。


すると周囲は、見かけだけで、こういうのだ。

「態度が良くなった。」「良い子になった。」

「まとも(正常)になった。」と。


奴隷の状態を無理して続けるのは、当然ストレスだ。

我慢し続けて、ついに堪忍袋の緒が切れた時、

周囲はまた言う。「悪い面が再発した。」と。


見た目を大人しくするためだけに、

周囲が安心するためにという理由だけで、

過度に命令を増やしたり拘束したり

万一薬物まで投与されるとしたら、

それは人間扱いではない。


それぞれの成長の仕方、世界認識の仕方を

長い目で見守ってくれると嬉しいのだが・・・、と思う。


自分が色々と我慢してつらかったから、

子ども本位の子育てを、自分は、やりたい。


赤ちゃん絵本をなでなでしながら、

苦い過去をフラッシュバックしつつ、

「今ここ」で至福を感じている私がいる。

小さい頃充分に出来なかったことを、今やる。


気持ちの良い触覚とは何かを知り、

満足するまで触り、掴み、充分味わう。

壁を触ったり、机を触ったり、小物を握ったりして

(そのときに邪魔されるのは、かなり苦痛だ。)、

この世界の手触りを少しずつ確かめる。


気持ちの良い触覚を感じることが出来たなら、

自分自身を受け容れることが出来るし

この気持ちの良い世界を受け容れることも出来るような。

長い間私にとっては懸案の、他者との接触障害

(他人に不用意に触れられると、

 寒気がしたり、手がしびれる)も治る気がする。


見失った触覚を、私自身が現在リハビリ中。

(子育てどころではない。自分育てで精一杯。^^;)


私の触りたい物を、ただ触りたい。それだけ。

(壊したり、盗もうなどとは思っていない。)


物に触って、その感触を確かめるために、私は

この物質世界に生まれて来たのかもしれない。


でも、この触覚体験も、途中経過の一つに過ぎない。

充分触り尽くして満足したら、

また別のかかわり方に進めるのだろう、きっと。

私は私をきちんと育てたい。