般若心経に関する本を読んでいる。


そこに、「ほととぎす」の句が出てきた。

ほととぎすをどう扱うかで、人の性格を表す。


織田信長

 ”鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす”


豊臣秀吉

 ”鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ほととぎす”


徳川家康

 ”鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす”


上記3つは有名な句なのだが、

この本には、もうひとつ紹介されていた。


松下幸之助

 ”鳴かぬなら それもまたよし ほととぎす” と。



最近の私は、どうもこのラストの句みたいな

心境になっている。

(もちろん松下幸之助さんは好きだけれど、

 たとえ作者が不詳であったとしても

 私はこの句にひかれただろうと思う。)


ほととぎすが鳴こうが鳴くまいが、

別に気にならない。


全然気にも留めていないんだけど、

もしふと鳴き声が聞こえたら、

「あら、思いがけず、ラッキー♪」とは思う。

ほととぎすの存在に、日頃からは依存していない。


ほととぎすを他人と重ね合わせたとき、

相手がどういう生き方をしようが、

それによって

私の幸せが大きく左右されるわけではない。


また、ほととぎすと自分を重ね合わせ、

鳴きたいときに鳴いて

鳴きたくないときは黙って

ただ存在していたいのだ。


自然体のままで。


ちょっと差し出がましいが、松下さんの句を

私なりにもじるならば、こうしたい。

 ”鳴けねども それもまたよし ほととぎす”と。


ニュアンス的には、松下さんの場合、

「鳴いても鳴かなくても好きにしていいよ」という

部下をいたわるような松下さんらしい句。

で私は、

「出来なくてもいいんだよ」という

生命体そのものへの思いを込めてみた。


戦国武将のような考え方、つまり、

あの声であの鳴き方で鳴くからこそ

ほととぎすとしての価値があるのだ・・・と

考えるのは、物質主義的な視野の狭さがある。

鳴こうが鳴くまいが

生まれ落ちたときから、

それはすでに、ほととぎす。


その存在をこそ、私は尊いと思う。


(存在するだけで良いという考え方は、

 戦国時代には通用しなかっただろうけどね。^^;)