この間読んだ本(「こころの天気図」か

「生きるとは、自分の物語をつくること」のどちらか)に

興味深いことが載っていた。

が、もう本が手元にないので、記憶を頼りに書いてみる。


事例 1)

フランスだかイギリスだかの学生が、

「自分の国では自分はポルノは見ない」と言うので、

河合隼雄先生が「じゃあ、他の国に行ったら見るでしょ?」

と返答したところ、その学生は

「質問の意味がわからない」と怒った。

その国では、子どもはポルノを見るべきではない、

という法律?があり、それを守っているようだった。


事例 2)

ナチスドイツの将校が、戦後の裁判の中で、

大量虐殺について、自分は命令に従っただけだ、と言う。

その将校には可愛い子どもがいたので、

敵とはいえ子どもにも手をかけることをどう思うか尋ねると、

「相手はユダヤ人だったのだから、仕方ない」と答えたらしい。


このふたつが、妙に引っかかった。


事例1においては、その外国人学生にとって、

「ポルノ=悪いこと」と頭にインプットされており、

悪しき情報はシャットアウトすべきものらしい。

河合先生は、悪事をそそのかしているわけではなく、

「心が揺れることもあるでしょう。そういう自分を受け入れますか?」

という思いも込めて、質問したのだろうが、

その学生の答えには、

「どこへ行っても、心は揺れない。揺れるはずがない。

 もしそういう自分になったら、許せないし、

 そういうことを言うあなたも許せない。」というニュアンスを

含んでいるなあと、私は本を読んで感じた。


事例2においては、戦争中、その将校にとって、

「上官の命令に従うことが私にとって良いこと」であり、

命令がどういう内容のものか、とか、

上官の人間性はどうなのか、とか、

自分にとってそれはどういう意味を成すのか、を

深く考えなかったのだろうなあと思った。


両方読んで、アイデンティティを考えてみる。

さらに、善悪などの基準を考えてみるる。


レッテルを貼るのは簡単だ。

これは良い、これは悪い。と。

が、中間が来たら、どう判断すべきなのか。

心が揺れる。迷う。苦しくなる。

そのブレが自分では辛いとき、

今までのレッテルを鵜呑みにして、判断する。

そうすると、見た目は整然とするので、すっきりするだろう。


が、深く悩まずに物事を済ませるのは、怠惰ではなかろうか。


事例 3)

「奇蹟との対話」という本に、こんな話もあった。

カルトっぽい友人に誘われて、黒ミサに参加してしまい、

恥辱を受けた青年がいた。

自分は薄汚れてしまったと思い、自殺まで考えていた。

悪いことに足を一旦つっこんでしまったら、

もう二度と取り返しが付かないと、彼は思いこんでいた。

(結局、ある人物との出会いによって、

そのトラウマは取り払われる。)


もし、事例1,2,3において、自分だったら・・・、と思う。


思いこみ、というのが、一番怖いことなのではなかろうか。


善と悪にきっちり分けて、その通りに生きるとして。

最初は、それでまあまあうまくいっていても、

ある日、判断しづらい状況に陥ったら、

自分はどうあるべきか。


常識(現時点での世間の多数意見。良識とは限らない)を取るか、

法律を取るか、倫理観を取るか、そのときの気持ちを取るか、

あるいはもっと別の観点を探る態度を取るか・・・。


今ここにいる自分が、まず判断しなくてはならない。


「○○がそう言ったから」とか

「今までがそうだったから」では、あまりにも無責任だ。


判断するためにきっちりと線を引く、

というのは、自分の判断力を逆に狭くするような気がする。


もっとゆるい視点で物事を捉え、

その場その場で、自分にとってベストの答えを出したい。


・・・などと、考えながら寝たら、とんでもない夢を見た。

長くなるので、夢の話はまた明日。