先日、あるアナウンサーの方の本を読んだ。
その中に、こんなお話あり。
失敗した部下と、その話を聞く上司の二人を
同じテーブルにつかせる。
向かい合わせではなく、斜めでもなく、
肩を並べて座る。
テレビのニュースキャスター2人が、
テレビ画面に向かって並んで座るような感じ。
で、二人の目の前にあるテーブルの上に、
「部下の失敗したこと」を載せる。
そうして二人で、その失敗について話し合う、という話。
・・・これは、とても良い方法だと思った。感動した。
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私たちは時々、失敗した人自身を非難することがある。
「失敗」そのものよりも
失敗した「人」に焦点を合わせて罵詈雑言を浴びせ、
その人の人格を傷つけてしまったりする。
文句を言われてプライドを傷つけられた人は、
失敗をどうするかという考えなどどこかへ行ってしまうし、
さらには、周りの人を恨むようになるだけだ。
そして、「失敗」自体は、取り残されてしまう。
本当にやるべきは、「失敗」を今後、どう処理するか、だ。
失敗した人は、自分の失敗で、既に傷ついている。
なのに、まな板の上に「失敗した人」を載せて、
周りでワイワイ騒いでさらに彼の傷を深くさせたり、
あるいは、彼を、思い通りに改造しようとするのは良くない。
人と失敗を切り離して、善後策を考えよう。
俎上に載せるのは、「物事」の方にしよう。
これから裁判員制度が始まるが、
もし自分が選ばれたのなら
「人(人間性・生き様)」を見て刑罰を決めるのではなく、
「失敗」の部分のみを客観的に見つめようと思う。
ある人が、万引きで捕まったとする。
その犯人が、日頃から嘘ばかりついていたとか、
挙動不審なことばかりしていたとか、
小学校の文集で『犯罪者になってやる』と書いていたとか、
それは、どうでもいいことだ。
今回の訴状が「万引き」なら、「万引き」のみを判断する。
それこそが、公平な裁判と言えるだろう。
最近のマスコミは、
犯人が生まれつき悪の塊だったかのように話を大きくする。
反対に、被害者はまるで天使だったかのように報道する。
それでは、事件そのものの焦点がぼやけるし、
ただの「万引き犯」ですら「世にも恐ろしい極悪人」にされてしまう。
被疑者をことさらに擁護するわけではないが、
視聴者の怒りをあおるだけのワイドショーには時々辟易する。
私たちは、ひとりひとり、不完全な存在だ。
まったき悪人もいないし、まったき善人もいない。
そういう中で裁かねばならないのなら、
なるべく私情を交えずに判断する姿勢が必要だろう。
「罪を憎んで人を憎まず」と、先人も言っている。
自分は何について裁こうとしているのか。
裁く前に冷静になって、まな板の上をよく見てみよう。
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もっと身近で日常的な例をあげるなら、
子どもがテストで0点を取ってきたとする。
親は、子どもに向かって、
子どものプライドを傷つけるような暴言を吐いてはならない。
それよりも、
「出来なかったところ、チェックしようか。」
と二人でテストを見直した方が、建設的である、ということ。
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