先日、「修行を捨てる 」という記事を書いたが、
あれからどうなっているかを書きたい。
その後、自分にわざわざ課題を設けなくても、
日々困ったことはたくさんあることに気が付いた。
親子のこと、夫婦のこと、学校や幼稚園関係、
PTAの仕事、その他の色々なこと・・・。
元々課題はあったのだ。
それに直に向き合うようになってきた。
つまり、「今日は窓ふき」「台所掃除」などと
ちょこちょこ決めてやっていたのは、
結局、私にとっては、
本当のやるべき日常から逃げていたとも言える。
自分がわざわざ設定しなくても、
試練というものはきちんとやってくる。
それがわかってきた。
「試練とは、与えられるもの」
それをそのつどきちんと受け入れて、
処理することが大事なのだとわかった。
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何かが自分の周りで起こったときに、
今、自分は何を感じているかを冷静に見つめてみる。
「怒り」「妬み」「悲しみ」「わだかまり」「もやもや」・・・
その正体を発見することにより、
「ああ、私ってこういう人間なのだ」とわかる。
で、そういう人間だということを、しっかり受けとめて、
あとは自分の思うベストな動きをしたい。
卑下する必要もないし、自慢する必要もない。
それだけで良いんだと気が付いた。
あほらしい、自分勝手な修行を止めて良かった。
毎日雑巾で廊下を拭いてます。偉いでしょう?
・・・みたいな気持ちでは、心は磨けない。
天から与えられた試練(心を磨くための課題)をこなすのが、
真の修行だった。
気が付いて良かった。
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今、ふと、手元のノートを開いたら、以前書いておいた
抜き書きが目に入った。
↓
「修心の修行における戒」の15条め。
15.六つのまちがった行為を慎む
a.まちがった忍耐
世俗のことでは大変な忍耐をするが
他者を利する心の修養に伴う困難には忍耐がない
b.まちがった決意
無意味な世俗の事柄の追求には
大いなる決意をするが、法の修行には決意がない
c.まちがった楽しみ
瞑想の大楽を楽しむ代わりに、
欲望や憎しみなど不健全な感情に基づく快楽を楽しむ
d.まちがった慈悲
物質的に貧乏な真摯なる修行者を哀れに思い、
世俗的な成功を収めた者を賞賛する
e.まちがった忠誠
近しい人を悟りの道へと導く代わりに、
その人が世俗の事柄に巻き込まれるよう促す
f.まちがった喜び
嫌いな人の不幸を喜び、
大勢の人に利益をもたらした人には無関心でいる
これをノートに書いたときは、何のことやらと思ったが、
今になって胸に迫ってくる。
まだまだ間違えることが多い自分。
自分を甘やかしてばかりだ。
さらに、気を付けよう。
(10月9日に記して、一度UPしてしまった。
少し手直しして、再掲載。)