先日、「修行を捨てる 」という記事を書いたが、

あれからどうなっているかを書きたい。


その後、自分にわざわざ課題を設けなくても、

日々困ったことはたくさんあることに気が付いた。


親子のこと、夫婦のこと、学校や幼稚園関係、

PTAの仕事、その他の色々なこと・・・。


元々課題はあったのだ。

それに直に向き合うようになってきた。


つまり、「今日は窓ふき」「台所掃除」などと

ちょこちょこ決めてやっていたのは、

結局、私にとっては、

本当のやるべき日常から逃げていたとも言える。


自分がわざわざ設定しなくても、

試練というものはきちんとやってくる。

それがわかってきた。


「試練とは、与えられるもの」


それをそのつどきちんと受け入れて、

処理することが大事なのだとわかった。


****


何かが自分の周りで起こったときに、

今、自分は何を感じているかを冷静に見つめてみる。


「怒り」「妬み」「悲しみ」「わだかまり」「もやもや」・・・

その正体を発見することにより、

「ああ、私ってこういう人間なのだ」とわかる。


で、そういう人間だということを、しっかり受けとめて、

あとは自分の思うベストな動きをしたい。


卑下する必要もないし、自慢する必要もない。


それだけで良いんだと気が付いた。


あほらしい、自分勝手な修行を止めて良かった。


毎日雑巾で廊下を拭いてます。偉いでしょう?

・・・みたいな気持ちでは、心は磨けない。


天から与えられた試練(心を磨くための課題)をこなすのが、

真の修行だった。


気が付いて良かった。


******


今、ふと、手元のノートを開いたら、以前書いておいた

抜き書きが目に入った。


  ↓


「修心の修行における戒」の15条め。


15.六つのまちがった行為を慎む


a.まちがった忍耐 

   世俗のことでは大変な忍耐をするが

   他者を利する心の修養に伴う困難には忍耐がない


b.まちがった決意

   無意味な世俗の事柄の追求には

   大いなる決意をするが、法の修行には決意がない


c.まちがった楽しみ 

   瞑想の大楽を楽しむ代わりに、

   欲望や憎しみなど不健全な感情に基づく快楽を楽しむ


d.まちがった慈悲 

   物質的に貧乏な真摯なる修行者を哀れに思い、

   世俗的な成功を収めた者を賞賛する


e.まちがった忠誠 

   近しい人を悟りの道へと導く代わりに、

   その人が世俗の事柄に巻き込まれるよう促す


f.まちがった喜び 

   嫌いな人の不幸を喜び、

   大勢の人に利益をもたらした人には無関心でいる



これをノートに書いたときは、何のことやらと思ったが、

今になって胸に迫ってくる。


まだまだ間違えることが多い自分。

自分を甘やかしてばかりだ。

さらに、気を付けよう。   


(10月9日に記して、一度UPしてしまった。

 少し手直しして、再掲載。)