(スタンディングオベーション=立ち上がって拍手喝采すること)
私は、またひとつ、自分を取り戻した!
2008年9月22日を記念日にしたいほど。
(でも忘れてしまうだろうから、23日の祝日に合わせておくか)
まさに、自分に、
スタンディングオベーションしたい位だ。
(9月22日から26日までの記事は、
実は22日に一気に書き進めた。
この記事は、23日に書いている。)
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生来の私は、本当はすぐに感動するタチだったので、
映画館でスクリーンに向かって、主人公達に
「頑張れ~、頑張れ~」と応援してしまうほど
(小学校の頃の実話↑)の性格だった。
けれども、ある日・・・。
うん、これからは例え話で進めてみよう。
いつものように、とある劇場で感動して、
思わずスタンディングオベーションしてしまったとき、
周りは誰一人立ち上がらず、拍手もしなかったとしよう。
私は、一人浮いてしまった自分が、猛烈に恥ずかしくなった。
顔を真っ赤にして、ストンと座る。
それからは、自分をセーブしてしまった。
むやみやたらに感動するのはやめよう、と。
その後、何度か劇場に足を運んだとき、
今度は大きなスタンディングオベーションが起こって、
みんなが立ち上がっているときも、
私はもう二度と立ち上がるまいと決めていたから、
腕も足も組んで、自席にとどまり続けた。
「なんと、みんな、恥ずかしいやつらだ。
そうやってはしゃいでいるのも今のうちだよ。
そのうち、自分が恥ずかしいことをしているって
みんなが気づくはずさ。」
本当は誰よりも早く立ち上がってはしゃぐような人間が、
すっかり自分を見失って、
以前の自分を彷彿とさせる人々を嫌うようになってしまった。
恥ずかしい自分を見せつけられているようで
過去の自分を思い出しそうで
自分や他人のはしゃぐ姿をどんどん毛嫌いしていった。
浮いてしまった、たった一度の
スタンディングオベーションの記憶を
遠くへ遠くへ押し込めてしまった。
時々、うっかり地が出て、飛び跳ねてしまったときは、
「バカをやっているんじゃない!」と自分を叱りつけ、
あのときの恥ずかしさを何度も思い出させては、
「座っていろ。立ち上がるな。」と命令するのだった。
そうして、私は自分をどんどんコーティングしていった。
けれど、隠された元々の自分が、感動したい、
はしゃぎたい、遊びたい、自由に動きたいと
時々悲鳴を上げたり暴れまわった。
何故こんなにも涙が出るのか、
何故こんなにも胸が苦しいのか・・・。
すっかり理由を忘れるほど年月が経っていた。
苦しさに耐えきれなくなった私は、
薄皮を少しずつ剥がすように、
おそるおそるコーティングを取り除いてみた。
苦しいのは、薄皮を剥がすから、じゃない。
剥がしていくたびに、悲鳴が大きくなるからだ。
その悲鳴は、助けを呼んでいた。
小さな私が、ずっとずっと悲鳴を上げていた。
「どうして私を隠すの?隠さないで。
恥ずかしがらないで。あなたは私そのものなのだから!」
何層にもかぶさった毛布の下で、子どもがもがいてる。
私は、そのうち夢中になって、毛布を取り除いた。
毛布は、今まで私が幾重にもかぶせ続けていた。
恥ずかしい自分を隠そう、隠そうとしていた。
でも、もう一度、その恥ずかしい姿を見ようじゃないか。
どう恥ずかしいのか、もっとよく見ようじゃないか。
もし、耐えきれない姿なら、また隠せばいい。
最後の一枚を剥がしおえて
ようやっと出てきた子どもは、顔をキラキラさせて、
わーいわーいとその場ではね回りだした。
なんだ。かわいいじゃん。元気じゃん。
どうしてこの子を恥ずかしいなどと思っていたのだろう。
私は、小さいその子(真の私)と手をつないで、
ランラ・ランラと踊ってみた。
すっごく楽しいじゃないか。
元々私は、陽気な人間だった。それを思い出した。
羽目を外して飛び回る自分を許す。愛しく思う。
もうちっとも恥ずかしい子なんじゃない。
同じようにはね回る他の人への嫌悪も、即座に消えた。
恥ずかしかった自分を丸ごと許すと同時に、
もう、たったひとりのスタンディングオベーションでも
怖くなくなった。
誰も立ち上がらなくても、
これからは、私は自分が感動したら、
一人で立ち上がって、拍手喝采するだろう。
本当につまらなかったら、つまらないと感じよう。
周りに合わせることのくだらなさを捨てることにした。
そうして、私は、自分をすっかり取り戻した。
そんな自分に、スタンディングオベーション。
今、自分に捧げたい曲 → 槇原敬之「どんなときも。」