子どもの頃、タロットカードを持っていて、
時々、友達のことを占ってあげたことがある。
(友達と言っても、単なる同級生とか。
私の噂を聞きつけて、「占って」と言いに来た人。
名前も顔もよく知らないような子だ。)
カードの意味をよく知らないので、
解説が載っている付属の本を片手に、
開かれたカードの流れをそのまま相手に伝える。
すると、相手は「当たっている」と驚くが、
私は、そのとき、おいてきぼりをくったような、
妙な疎外感のようなものを感じた。
私は、その人がどんな過去だったかわからない。
カードが意味する深い部分もわからない。
カードを見た後の、未来もわからない。
私は単なる、カードの代弁者に過ぎない。
カードとその人だけが仲良くなって、
私だけ話についていけず、ぽつねんと一人、のような。
別に、「カードを読み解いたのは私なのよ!」と
自分の手柄にするつもりは毛頭無いのだが、
カードを見せる前と後の彼女の移り変わりを
もっと知る権利が欲しいと思った。
けれど、「カードをやってほしい」という友人とは
今までそれほど接点が無く、カードを見せた後もまた
それほど深い仲になるわけでもない。
まさに、私の人生と、その友人の人生の
接点が、カードでぶつかり合ったのみの関係。
占い師と客のように、二つの直線が一点で結ばれただけ。
だからこそ、私は、とても恐れた。
もし、そのカードの読み違えで、
彼女の人生が悪くなってしまったら・・・。
子供心に、人の人生に踏み込むことに恐怖を覚えた。
だから、他人を占うのは極力避けていたし、
「どうしてもやって」と言う人だけにしていた。
そして、やったあとの、「これで良かったのか?」という後悔。
重圧に耐えかねて、カードからも遠ざかった。
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ブログをやっていると、そのときの気持ちが時々蘇る。
記事を書くというのは、自分のカードをきって並べ、
自分の手元にある本を元に、それを解釈していること。
それを読んだ人から好意的なコメントを下さるたびに、
書いて良かったと喜ぶ半面、
「こんな記事を書いていいのだろうか。
誰かの人生を狂わせてしまったらどうしようか」と
ビクビクしている自分がいる。
自分の手元にある本とは、私の独自の解釈を意味する。
それが正解かどうか、私にさえわからない。
こういう気持ちにいつもなるので、
人との接点が本当につらくなるときがある。
本当は、こんなに考えすぎなくてもいいのかもしれない。
人と人との接点はたくさんあって、
ある人の人生が一本の直線だとしたら、
その直線に適当な間隔を空けて
垂直にぶすぶすと無数に刺さる直線との交点が
その人と他人とのつきあいであり、点であり、
私もその点の一つに過ぎないのだ、と。
それでもやはり、その一点を汚しているのではないか、
そんな気持ちに陥ってブルーになった。
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そんなとき、ふと、美輪明宏さんの言葉が浮かんだ。
ある人が美輪さんに質問した。
「このお客さんはわかってもらえそうにないから
手を抜いておこうとか、舞台では出来るでしょう?」
すると、美輪さんは、
「それはお客様に失礼でしょう。
明日のことは誰にもわからない。
そのお客さんが死んでしまうかもしれないし、
私が死んでしまうかもしれない。
だから、一度きりの出会いなのだから、
いつでも真剣勝負でやりますよ」と回答された。
このセリフが、突然思い出されてきて、
「ああ、一期一会なんだなあ」とわかった。
カードとの出会いも、人との出会いも、
単なる接点ではなくて、
全部、一期一会なんだ。
将来の事なんて、誰もわからないけれど、
とにかく私は、自分の記事を一生懸命書くことに
全力を傾けよう、と思った。
読んだ人がどう思おうと、それは向こうの解釈で、
私はもうどうすることが出来ない。
それを受け入れよう。
カードをやっていたときの疎外感は、
私自身が単に気乗りしなかっただけなんだ。
相手のためによかれと思う気持ちが、
少し足りなかったのだと思う。
又一つ、謎が解けた。