最近テレビでやっている「ごくせん」を、

小5の長女がとても楽しみにしていて、

毎週見ては感動の涙を流している。


長女は、彼らのことを中学生と思っているが、

私は、高校生だと思う。どっちだろうか。


ストーリーは、その学校生活はかなり荒れていて、

担任の教師が東奔西走してクラスをまとめ上げる。

その担任の正体は、実は極道のお嬢さんなのだ。

で、「極道の先生」を略して、「ごくせん」なのだろう。


この話には、毎回毎回、ケンカシーンが出てきて、

そのケンカの仲裁に、女一人が間に入り

「仲間だろ?」とか「うちの生徒に何をする!」とか、

かなり熱いセリフを語る。


私はそれを見て、良い先生だなあと思う半面、

うっとおしさも感じてしまったりする。


このうっとおしさは何だろうかと、自問自答した。


「クラスで一丸となろう」と切々と訴える先生。

その一丸が、私にはどうも、重い。

自分がこのクラスだったら、時々飛び出したくなるだろう。

とても良い先生なのに。何故だろう。


そして、思い至ったのが、「結束」というのは、

裏返してみれば、「束縛」に値するからではないか、

ということだ。

そしてまた、どこかで「結束」すれば、

そこに入っていない人は「排他」となり、争いが生じるのだ。


まだ、結束の良さを知らない生徒達に、

結束を教えるというのは困難で大変なことだろう。

すぐにバラバラになるから、一人一人に体当たりで、

つながろう、つながろう、と「ごくせん」は説得している。

その姿勢は、とても美しい。

是非とも、その姿を貫いてもらいたい。


そして、その一方で、一旦つながった絆は、

いつもギュウギュウに締め付けないでも

大丈夫なのだ、とも思うので、

結束している仲間の一人が、たとえ地球の裏側に行っても、

その絆は切れないのだという安心感を

それとなく生徒達に伝えてもらいたい気がする。


犬と飼い主のリールが、最近はメジャーのように、

伸びたり縮んだりするが、あれと同じような感じがいい。


絶対、側にいなきゃダメ、と言うわけではなくて、

とってもゆるくてしなやかな絆。

そういう人間関係がベストだと思う。


また、「今は自分たちの仲間でない人」とでも、

やろうと思えば、絆はいつでも作れるということ。

それも大切な気づきだと感じる。


ごくせんのいる学校と他校の生徒でよく衝突が生じるけれど、

たとえば彼らは、大学で同じクラスになるかもしれない。

そういうつながりもいつかは出来るかもしれない。

だとしたら、今、仲間じゃないからといって、

衝突するのはあまりにもつまらないことだと思う。


一つの結束だけでずっとまとまり続けるのも良いが、

他の結束に参加出来る余地もある。

みんな、それは、自由だと思う。

自分の居心地の良い仲間で、くっついて良いと思う。

ただ、それ以外を排除しようとするのは、くだらないと感じる。


人間関係は、一対一のように一本だけの長い線が続くのではなく、

まさにセーターの網の目のように、

私たちは縦横無尽に人間関係を広げていくんだろう。

その網の目は、伸縮可能なんだろう。


そういう結束がすべての人間にとって、

最終目標なのだと思う。