一般意味論を勉強中。

(ブログに書いてあることは、私の個人の考えであり、

皆さんに押しつけているわけではありません。)


「一般意味論」(河野心理研究所・発行)の本には、

「報告」と「推論」と「断定」を判断すべきと書いてある。


こんな例がある。


一人の生徒が、授業開始後十五分たってから

教室に入ってきました。そのことについて述べた

三つの文を比較してみましょう。


1)「彼は遅刻した。」

2)「彼はだらしない子どもだ。」

3)「彼は寝坊したにちがいない。」


この3つの文は、客観的事実を述べているようだが、

よくよく注意してみると、

1)報告(あるいは事実)

2)断定(一部を見て、レッテルを貼る)

3)推論(一部を見て、勝手な想像をする)

になっている。

(・・・と私は思う。間違っていたらすみません。

 国語の成績悪かったので、あまり強く書けません。)


本来なら、テレビや新聞のニュースは、

1のみを伝えるべき事柄だと思う。


でも、いつのまにか、2や3がしのびより、

全体がねじ曲がって伝えられたりする。

(ワイドショーとかで、テレビ局側の考えが入る)


事実の部分はどこか、断定や推論部分はどこか。

そういう見方をしてみると、

ニュースが楽しくなるかもしれない。


考えてみれば、私たちの周りのことも

推論や断定でかなりの部分、

成り立っているのではないだろうか。


「恐竜らしき一部の骨が出土した」(事実)

「恐竜はこういう形であろう」(推論)

「こういう理由で滅んだに違いない」(推論や断定)


「子どもが、鮫の絵を描いた」(事実)

「その子は、心がゆがんでいるかもしれない」(推論)

「将来、絶対、悪いことをするに違いない」(断定)


推論と断定は、事実ではない。

誰かの主観が混じっている。

その主観が正しいかどうかは疑問だ。


自分の常識、疑ってみてはどうだろう。

それは、誰かの、あるいは自分だけの

推論、断定かもしれないのだから。


****


それにしても、どうしてこんな風に

断定、推論、事実が曖昧になってしまうのか。


一例として考えられることだが、

論文の書き方で、推論や意見なども

断定的に「~だ」とか「~である」と書く人が

たまに見受けられる。

(それは私のブログのことか?・・・汗)


で、論文は書いた人の名前が付記されるが、

それを読んだ人が、その書いた人を全て信用し、

論文が全部事実であると誤認して

しまうこともあるのではなかろうか。


最近のテレビでも、「専門家の話では・・・」とインタビューになり、

「最近の研究では、

 ○○が体に良いという研究が進められています。

 まだ、結果ははっきりとは出ておりませんが、

 かなり有効だと思われます」

とその筋の研究者が発言すると、

「○○は体によい」という部分だけが一人歩きして、

どんどん○○配合の製品が作られ、売られてしまう。

そんな流れのような気がする。


どの辺まで事実なのか、っていうことを、

ちゃんと見極めないといけないんじゃなかろうか。


****


では、推論と断定と事実をごちゃ混ぜに書く人が悪いんだ、

と、他人のせいにするのも、それはちょっとなあと思う。


つまり、文章を読みとる力、事実や報告を見抜く力を

それぞれが鍛えていくべきなんだろう。