一般意味論では、こんな言葉が出てくる。


「地図は現地ではない」。


いくらたくさんの説明を重ねてみても、

言い尽くせない要素がたくさんあるということ。


言葉だけで、実体を全て言い表すのは不可能。

言葉にはそれほど幅がない。


レモンとライムの酸っぱさの違いを説明出来るだろうか。


花の香りを説明出来るだろうか。正確に色を伝えられるか。


永遠に続く円周率を正確に語ることが出来るだろうか。


A氏の姿形、家族構成、日頃の態度などは説明出来ても、

心の中を説明することは難しい。

A氏の過去全てを全部語り尽くすことも出来ない。

たったA氏の1日を全て網羅することも難しい。

だとしたら、A氏のことを全てわかることは無理。


それなのに、私たちは、

ちょっとの知識で全体を決めつけてしまうことが多い。

(↑あ、この文も、昨日の記事「抽象のはしご」だ。

 「私たち」ではなく、「私」だけかも)


恋人から電話が今日こないから、

浮気しているかも、とすぐ想像してしまったりしないか?


「私って、人間としてダメだから」と自分で決めてしまう人がいるが、

たまたま忘れ物が重なっただけなのに、

明日は忘れ物をしないかもしれないのに、

たったそれだけのことで、人格を全否定していないか。


相手の怒っている姿を1度見ただけで、敬遠したりしていないか。


私物が見あたらないだけで、誰かに盗まれたと思っていないか。


「俺だよ」と聞いただけで、孫だと判断していないか。


リンゴと聞いただけで、赤色と想像して終わりにしていないか。

他の要素が消えてしまったりしていないか。


安いと聞いただけで、すぐに買いに行っていないか?

何を買いに行くのか?必要な物なのか?騙されていないか?


ある人が○党の政治家と聞いただけで、

腰巾着のようにすぐへこへこしてしまわないか?

あるいは、○党だけ聞いて、その政治家に憎しみを感じたりしないか?


スピリチュアルと聞いただけで、

スピリチュアルが嫌いな人は話を聞こうともしないし、

また、スピリチュアルが好きな人は、鵜呑みにしていないか。


「本当のことですよ」と本人が語っても、

それがうそか、真実かは第三者にはわからないじゃないか。


悪役の俳優が、実生活でも悪人とは限らないし。


などなど



一部を見て、全体を勝手に想像すると危険だ。


宝の地図を手に入れて、現地に行ったとしたら、

地図にないジャングルにとまどうかもしれない。

あるいは、地図に書いていない地雷を踏むかもしれない。

地図には、全部は書けない。

地図にない物を、無い、と決めつけて良いのか。

あるいは、地図そのものをどこまで信じて良いのか。


地図(記号や言葉などの一部)だけを頼ってはいけない。


「木を見て森を見ず」にならないようにしよう。


「氷山の一角」で一喜一憂せず、冷静に判断しよう。


全体を俯瞰出来る見方を身につけよう。


別の角度からも、きっちりと検証してみよう。


本来なら、「現地」をしっかり見ること。それが大事。


・・・と、思っている私。


(この記事は、一般意味論の本を読んで、

 私が考えたことなので、

 一般意味論の本当の定義とずれているかもしれない。

 だから、私の記事を読んで、

 一般意味論とはこういうことか、と決めないで欲しい。

 もし出来るなら、それぞれがちゃんと文献を読んで、

 勉強してもらえたら嬉しい。)