「それでも人生にイエスと言う」の本に、

こんなことが書いてあった。(解説の部分。)

  ↓

「われわれは人生から何を期待出来るか」という

自己中心的な人生観は、

自己存在そのものの意味にとって

原理的な限界をもっているのである。

それ故、この人生観は、

「人生は何をわれわれから期待しているか」という

観点に変更されねばならない。

それは、人生から自己を問う、というように、

人生観を百八十度コペルニクス的に転回することである。


簡単に言うと、

「人生って、何か意味あるの?」とこちらが尋ねるのではなく、

こちらが人生に尋ねられているのだ。

「人生に、どう意味づけするのか?」と。


人生を意味のあるものにするか、無意味にするかは、

自分次第なのだということ。


*****


スピリチュアルでの考え方は、この転回の考え方が多い。


「親に生んでくれと頼んだ覚えはない」

というのは真実ではなく、実は

「自分が今の親を選んで生まれてきたのだが、

 その記憶が無い」という事。


「自分は偶然この地球に生まれてきてしまった。

 ひとりぼっちだ」というのは真実ではなく、実は

「自分がこの場所を選んだから、ここにいる。

 そして、全てのものに生かされている」という事。 etc


*****


そうして、私は思う。


いつも神様に向かって考えていたこと。


「私は神様に全幅の信頼を置いているのか?

 すべてを任せられるのか?」

「私のような人間を受け容れてくれるのだろうか?」


この問いの答えが、いつも心で揺れていた。

答えはいつも、限りなくイエスに近いノーだった。

80%は信じているけれど、残りの20%を

神に向かって投じることが出来ないでいた。


でも、これをコペルニクス的転回で考えたらどうだろう。


「神様は既に私を信頼し、愛してくれているのだ」と。


つまり、この地球上に立って生きている時点で、

大いなる愛に包まれているのだ。


そうしたら、もう、どのようにお返しを行っても、

貸借無しという訳にはいかない。

与えてもらっている愛が大きすぎる。


だから、感謝しか出来ない。


ちっぽけだなあ、自分。なんと小さいのだろう。

塵のような私。

でも、神は見捨てたりはしない。私は神の一部だから。


神は私の親であり、どんな我が儘な娘でも、

神は私を愛し抜いてくださっているのだから。


ちょっと不良の娘が「親なんて嫌いだよ」と、すねたって、

まったく動揺することなく、親の愛は変わらない。それと同じ。


ここにいることこそが、愛されている証。