「それでも人生にイエスと言う」の本に、
こんなことが書いてあった。(解説の部分。)
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「われわれは人生から何を期待出来るか」という
自己中心的な人生観は、
自己存在そのものの意味にとって
原理的な限界をもっているのである。
それ故、この人生観は、
「人生は何をわれわれから期待しているか」という
観点に変更されねばならない。
それは、人生から自己を問う、というように、
人生観を百八十度コペルニクス的に転回することである。
簡単に言うと、
「人生って、何か意味あるの?」とこちらが尋ねるのではなく、
こちらが人生に尋ねられているのだ。
「人生に、どう意味づけするのか?」と。
人生を意味のあるものにするか、無意味にするかは、
自分次第なのだということ。
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スピリチュアルでの考え方は、この転回の考え方が多い。
「親に生んでくれと頼んだ覚えはない」
というのは真実ではなく、実は
「自分が今の親を選んで生まれてきたのだが、
その記憶が無い」という事。
「自分は偶然この地球に生まれてきてしまった。
ひとりぼっちだ」というのは真実ではなく、実は
「自分がこの場所を選んだから、ここにいる。
そして、全てのものに生かされている」という事。 etc
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そうして、私は思う。
いつも神様に向かって考えていたこと。
「私は神様に全幅の信頼を置いているのか?
すべてを任せられるのか?」
「私のような人間を受け容れてくれるのだろうか?」
この問いの答えが、いつも心で揺れていた。
答えはいつも、限りなくイエスに近いノーだった。
80%は信じているけれど、残りの20%を
神に向かって投じることが出来ないでいた。
でも、これをコペルニクス的転回で考えたらどうだろう。
「神様は既に私を信頼し、愛してくれているのだ」と。
つまり、この地球上に立って生きている時点で、
大いなる愛に包まれているのだ。
そうしたら、もう、どのようにお返しを行っても、
貸借無しという訳にはいかない。
与えてもらっている愛が大きすぎる。
だから、感謝しか出来ない。
ちっぽけだなあ、自分。なんと小さいのだろう。
塵のような私。
でも、神は見捨てたりはしない。私は神の一部だから。
神は私の親であり、どんな我が儘な娘でも、
神は私を愛し抜いてくださっているのだから。
ちょっと不良の娘が「親なんて嫌いだよ」と、すねたって、
まったく動揺することなく、親の愛は変わらない。それと同じ。
ここにいることこそが、愛されている証。