『免疫の意味論』という本を読んだ。
この本は、免疫について書いてあるのだが、
「自己」と「非自己」を対比させているので興味深い。
自分の体「自己」に、自分の物ではないウイルス「非自己」が
侵入してきた場合、それを判別して排除する。
そういう機能が体に備わっている。
それだけの簡単な図式なら、わかりやすくて結構なことだ。
ところが、問題もある。「非自己」なのに、
「自己」として温存されてしまう場合がある(エイズなど)。
あるいは、今まで「自己」だったものが、
急に「非自己」になった場合(癌など)、
何故それは排除されないのか。
また「自己」なのに、「自己」を攻撃する病気もある。
食品アレルギーを起こす人もいるが、そもそも
食物は全部「非自己」であるはずなのに、
それを摂取しても普通はOKなのは何故なのか。
病気の発症をする人、しない人。
「自己」や「非自己」に反応する細胞と、しない細胞。
そもそも、この「自己」と「非自己」の
境界線自体もあいまいなため、
免疫学は壁にぶち当たっているらしい。
この本はかなりかみ砕いているけれども、
素人からしたらやはり難解な点は多い。
一素人である私が、見解を述べるのもおこがましいのだが、
私がこの本を読んで思ったことをここに書いておきたい。
つまり化学者たちは、ひとつの細胞がひとつの機能だけを
担当しているのだと明確にさせたいようなのだが、
そういう仮説が成り立たなくて、困っているようだ。
たとえば、人間の幹細胞ひとつとっても、
それは、一つの物だけに変化するわけではなくて、
あるものはT細胞になったり、赤血球になったり、
プラズマ細胞、単球マクロファージ、血小板など、
とにかく、どれか別のひとつに変身してしまう。
その変化にも、特別な理由が見あたらないようだ。
また、例えばT細胞も仕事をするのとしないものがあって、
仕事をするときとしないときもあり、
厳密化されていないようだし。
アレルギーのことも、
遺伝子の問題だけでは解決出来ない事案がある。
そうなってしまうと、仮説がガラガラと崩れてしまって
どうしようもないのだそうだ。
そういうのを一通り読んでみて、
へっぽこ主婦の私が導き出したのは、
「細胞一つ一つに選択する力がある」という結論だ。
人間と同じように考えればいい。
良い人間にもなれるし、悪い人間にもなれる。
働くか、働かないかも選択も出来る。
幹細胞が、将来どの細胞に変化するかは、
人間が就職活動をして、自分にぴったりの職に就くのに似ている。
そう考えれば、すんなり納得出来るではないか。
人間の生活も、細胞の生活も同じってこと。
自分以外の「自己(仲間)」を許容出来る。
自分以外の「自己(仲間)」を許容出来ない。
自分以外の「非自己」を許容出来る。
自分以外の「非自己」を許容出来ない。
許せなければ、戦争を仕掛けるし、
許して寛容になれば、共存出来る。
「まさかこんな小さな一細胞が、一人の人間がするように、
選択の力を持てる訳がない」と考えてしまうと、
このような結論は導き出されないと思う。
でも、この世の中のものは、きっとすべて、
ミクロ、マクロにかかわらず
全て選択の自由が与えられているのだと、
私は考える。
麻疹にかかって二度と麻疹にかからないのは、
細胞が経験し学習したからである。
キャッチセールスにかかった人が懲りるのは、
その人が経験し学習したからである。
学習がうまくいかなければ、同じ経験がまた起きる。
細胞だろうが人間だろうが、
たくさんの「自己」「非自己」と出会い、
選択を自分なりにして、新たな経験を作る。
たくさんの経験を蓄えるのが、生きるということなのだろう。
そして、最終的な結論として、
この世のもの全てが、最終的に、
相手に対して「寛容」になれるよう目指している。
お互いの生命を尊重し合うことで、
理想郷が出来上がるのだから。
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ここまで考えて、私は思う。
確かに、戦争はこの世から無くならないだろう、と。
細胞の中でさえ、熾烈な戦いがある。
人間同士の戦いも、これでは終わるはずがない・・・。
ただここで、私たち一人一人に選択権があり、
和平を選ぶか、戦争をするか、
選ぶことが出来るというのは希望につながる。
そして、その選択は一度きりではなく、
「今」そして「いつでも」「絶え間なく」選択し続けていけるよう
プログラムされているのだろう。
常に「和平」を選べば、「戦争」は起きない。
ちらっと選択を変えれば、「戦争」は起きる。
そういうあやういバランスの中でどう生きるか、
一人一人あるいは細胞一つ一つが試されている。
神様が生命に与えた力とは、選択の力なのだ。
(・・・などと色々書きましたが、
専門家ではないので、単なる主婦の寝言です。)
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