「寝ているお母さんに毛布を掛けてあげないなんて、

 お姉ちゃんは冷たいね」

という弟のセリフや、

「あんたはどっちの味方なの?」

とふたりの友人からつきつけられた命題。


そこから導かれた自己像は、

「自分は冷たい人間なんだ」

「どっちつかずの人間なんだ」etc

ということ。


そういうのを引きずって生きてきたけれど、

今はそういうのを一蹴出来る。


たとえば、弟のセリフは、

「お母さんなんかに掛けてやるもんか」というような

私の悪意があるなら、それは正当性を持つが、

「寝ている人→毛布を」という図式が

頭になかった私には悪意がなかったわけで、

弟の言い分は的はずれなわけだ。

むしろ、

「母が寝ている→誰かが毛布を掛けるだろう→

 姉がそれをしない→だから姉が悪い」という

考え方をしてる弟に問題がある。

「誰かが毛布を掛けるだろう→

 じゃあボクが→でも面倒」という流れを

無意識あるいは意識的に消している。

その「面倒」という部分の自らの罪悪感を

のんきな私に投影しているに過ぎないのだ。


「どっちの味方なの?」と言っていた友人。

自分たちの戦争に私を巻き込んで、

自分側に味方が増えれば、

自分の意見が正当化されると信じている。

つまり、個人同士で対決するには不安だったのだ。

そうして、「ふたりとも大事」と言った私は

ふたりの意見に合わないので排斥されてしまった。


そうやって、状況を整理してみれば、

「私は冷たい」とか「私はどっちつかず」などといった

勝手な思いこみも的はずれとなる。


考えてみれば人は、

ちょっとした言動で人の印象をころころ変えては

「あなた(私)はこんな人間なのね」と

レッテルを貼ってしまう。

そうして、それにしばられてしまう。


人間なんて、本当は曖昧なんだ。

あるときは優しかったり、残酷だったりする。

でもそれをひっくるめて、その人。


なのに、「自分は冷たい人間なんだから

今ネコがかわいいと思う自分は違う」などと

わけのわからないことを言ったりする。


最初の”冷たい人間だ”という定義がおかしいと

気が付かないまま。


人間はミラーボールのようなものだ。

色々な面があって、時々違う場所が光る。


それを「キラキラしてきれいね」と言う人もいれば、

「光が目に入って痛いじゃないの!」と怒る人もいる。


色々な人が、私の印象をそれぞれに捉えている。

でも私は私。それ以上でもそれ以下でもない。

ミラーボールなんだから、

一面だけが全てではないのだ。