大きな事故やけが、病気などをしたり、

倒産や災害で財産をいっぺんに失うとか、

自殺しようとしたけど死にきれなかったり・・・。


そんなぎりぎりの所に来て、

すごく大事なことに気が付く人って結構多いらしい。


”ひとはなぜ、何のために生きているのか?”


失ったものを惜しみながら、そういうことをじっくり考える。

そうしていると、自分なりの答えがピカリンと出てくる。

(・・・ということもある。無い場合もある。)


私なら、そういうひらめきは、どんどん得たいと思う。



でも、そのひらめきと引き替えに

自分の体や心が傷ついていたとしたら、

それは私にとっては正直あまりありがたくない。


「片足は無くなるけれども、真理は得られるよ」

と聞いて、「じゃあ、つつしんで

片足を差し出しましょう」なんて出来るだろうか。

出来るわけがない。


そんな痛い思い、絶対にしたくない。


だから私は、五体満足のうちに、

あるいは大事な物を失ったりする前に、

その真理とやらを、出来るだけ自分で追求している。

追求していたい。

この思いは、なんだか、強迫観念っぽいほどだ。


片足が無くなったら得られる真理がもしあるのなら、

万一無くなったときの自分を徹底的に想像して、

「もしかしたら、これが答えでは?」というやつを

無理矢理にでもひねくって頭から出している。


そうやって先に答えを出しておけば、

片足を失わずに済むかも。

あるいは、万一失ってもダメージが少なく済むかも。

などと、甘い考えを持っている。


失うことの怖さから逃げている、

体験から逃げている、と言われても仕方ない。

けれども、やらずにいられない。


とにかく私は、利益の追求よりも

真理の追究の方が好き。


そして、突然のアクシデントや体の痛みを

極端に嫌う臆病者。


出来るならなるべく痛い思いをせずに、

良い思い(真理に気が付くこと)をしたい。


痛い思いをしたり、大事なものを失ってから、

「ああ、一番大切なものはこれだったのか。

 それにしても、代償は大きかったなあ。」

なんて後悔をするのが一番イヤだ。


それだけは、絶対にしたくないと思っている。


真理に気が付いた後に

やりたい行動や仕事が見つかったとしても、

自分のポカのせいでそれに規制がかかるのは

どうしても我慢ならない。


偏屈な性格だなあ、我ながら。