去年、オーストラリアの友人宅にいって、ふと気がついたのは、77歳になる友人は、常にさまざまな記録をとっているということだ。怪我をしたときには、その怪我の写真まで撮って記録していたのには、驚いたし、ブッシュ火災の記事にそって、自身の過去の火災の思い出を書き出して添えていたのには、感心した。
記録することで、思い出は、さらに膨らむし、記憶の崩壊を少し抑えられるかもしれない。
そういえば、私の82歳の母もまた、記録をとるのが好きだ。

ブログを更新することは、まれにしかないけど、ほぼ毎日ブログめぐりはする。ほとんどが日常のたわいない出来事の羅列にすぎないと知っていても、平凡な暮らしの中にいる私には、同じように日々暮らして行く人の声が時には、励みになったりすることもある。
それぞれの人々は、どんな想いでブログを綴っているのか知る由もないけど・・・・。

そろそろ春。ようやく、私の今年がはじまる。
お正月に今年の抱負を抱くのが、普通だろうけど、新学期が春にはじまるという幼き頃の習性からか、私にとって、はじまりの時は、いつも春なのだ。
そして、今年は、「記録する」ことをひとつの目標にしようと思う。

文章でなく、ただの記録。
色のない記録。

アナログにするかデジタルにするかは、後で考えよう。
幸い、ほとんど人のこない私のブログだから、ここにアップしてもいいような気もするが

Twitterのアカウントを2つもっている。
ひとつは、仕事用、そしてもうひとつは、興味半分でとったもの。
最近、ほぼ毎日、両方の情報をチェックしている。かなりはまっているかもしれない。
仕事のアカウントで、私が情報を発信するのは、単に会社の新情報ぐらいのもの。でも、いただく情報は、イベント、映画、本など盛りだくさんでありがたい。もっとも、100のツィートの中で一つぐらいの割合だけど。
もう一方のアカウントは、ほぼジャーナリズムに絞っているので、ここのところメディアで報道されない中東情報満載で、これまた見逃せない。
さすがに、目が疲れてきている。
ほんの少し時間をおくだけで、ツィートが200とか溜まるんだもの。

電子書籍のことも考えてiphoneにしようかとも考えたけど、パソでもこれだけ疲れるのに、スマートフォーンにしたら、もっとヤバイことになりそうなので、やめた。
なにより、コスパ的に私の場合割高な気がするもの。

さらに、本当に携帯って必要か?なんて思い始めたから・・・・年のせいかしら。
彼が死んだ朝は、とても寒い日だった。ちょうど仕事が休みの私は、ずっと彼のそばにいることにした。
ブーツの空き箱を利用して棺桶を作った。
カラーシートを貼りながら、彼との日々を思い返し、応えもしない横たわった遺体に話しかける。
そう、もうそろそろ15年なんだね。
ネコが大嫌いな私が、ネコと暮らすなんて誰が思っただろうか。そして、暮らしはじめた頃、「ネコは15年ぐらい生きるよ」と友人に聞かされ、卒倒しそうになったよ・・・と。
エサを食べるときにそばにいてもらいたがったことや、いつも啼くときの声や表情が鮮やかに脳裏に蘇る
悲しみ・・・というのだろうか、なにか得体のしれない空間が私のなかにじわじわと広がり、涙が溢れてくる。
寂しいという感覚ではない。
なんなんだろうか・・・・。強いていえば、なにもしてやれなかったという悔悟かもしれない。

そして、葬儀の日。
家から車で辿りついた霊園は、こざっぱりとしたお寺だった。
ネットで見つけた霊園だけに、ちょっと心配していたのが、そのお寺の佇まいを見ただけで和らいだ。
息子を孫も駆けつけ時が、火葬の時間だった。
家族全員で彼を見送った。

冷たい雨が、みぞれとなった時、彼は骨となって、私たちの家に戻ってきた。

そう、彼がはじめて私たちの家にやって来たときも、
花冷えの寒い日だったと思い出させるかのように。


微かな音で、目覚めたとき、既に死は確実に彼を捉えていた。
生きものの死の瞬間を見るのがはじめての私にさえ、死が間近だと悟った。
彼の中で、なにかが波のようにざわめき、その度に彼は、大きく口を開き、目を見開き、喘いだ。
大きなしゃっくりをしているかのようにもみえる。
でも、私の目には、一生懸命に何かを吐き出そうとしているかのようにみえた。ひょっとすると、骸から魂が抜けだそうともがいていたのかもしれないが、小さな体を震わす状況に、私は慄き、なす術も無く、ただ、横たわる小さな背中を撫でてやることしかできなかった。
漆黒の闇の中で手に伝わる震えと苦悶に満ちた小さな顔
だけが、その時の私の世界だった。
彼を苦悶の中から一刻も早く解放してやりたかった。
神に無の気持ちで祈った。無慈悲な神から見れば、目にも入らない小動物の死なぞ・・とも祈りながらも思いつつも。
やがて、彼の内なる波は、少しずつ小さくなり、

そして、彼は目を見開いたまま死んだ。
いったい、彼は、何を見ていたのだろうか。
先にある世界か、それとも虚無なのだろうか。

見開いたままの目を閉じて、小さな顔を脱脂綿でふき、ありがとうと彼を抱き締めた時、涙が零れた。
でも、激しい悲しみの感情に襲われることはなかった。



クリスマス前に、急に食欲をなくしたペンシルは、今年14歳8ヶ月。人間ならば75歳前後の老人だ。
食欲不振の原因は、どうやら、持病の鼻炎が悪化したのが原因だったらしく、お医者さまの治療のかいもあって、峠は越したかに見えた。
しかし、食欲自体は、元には戻らず、今度は便秘になったり・・と年末は、彼の医者通いも私の忙しさに拍車をかけた。

一時は、薬を無理に飲ませようとし、鼻の点鼻薬を挿そうとする私の強引さにひどいショックを受けたのか、呼吸困難の状態になり、タクシーで医院に駆けつける大騒ぎにさえなった。なんとか、年は越したものの、相変わらず、食欲は戻らない。好きなものをと、ヨーグルトや15歳以上のネコ用のペースト食を手から食べさせるといくらかは食する程度。
レントゲン検査では、特に内蔵に異常はなかったものの、触診で背中に異物があると医者は言う。
人間であれ、動物であれ、自然死に近い死に方が一番と考えている私は、精密検査をして、そして、苦痛を伴うような治療をする気持ちには、なれない。
今後、彼には、なにをしてやればいいのだろうと・・・陽だまりの中で眠るペンシルを見て思う。