桜の四十九日 | 風を感じて

風を感じて

アラカンに突入。セカンドライフ、ぼちぼち行こか。

先週末におじじ(義父)の四十九日の法要を行いました。

菩提寺でお経をあげてもらった後、お墓に移動して納骨も済ませました。


お墓が山にあるため、脚の悪いおばばと娘、孫っちたちはお寺の待合でお留守番。息子がビデオ通話でお留守番組とつないで納骨の様子を生中継してくれました。便利やぁ。

本堂で遺骨とお別れするときにおばばは涙ぐんで名残惜しそうでした。

ずっとふたり暮らししてきたのでその喪失感や寂しさは計り知れません。

夫婦になって60年でした。


石屋さんに墓石を動かしてもらい、晒に包まれた遺骨をお墓の下に納めました。

年月を経てやがて土に還っていきます。

お墓はそうして先祖代々が土に還る場所として受け継がれていきます。

今は核家族化や少子化、時代の変化もあり、墓じまいやお墓を持たない選択をする家も増えてきているようです。

これからは夫婦別姓になるだろうし、もっと個人の多様性が認められる世の中に変わっていけば、お墓=家 的な考え方は無くなっていくでしょうね。

家族でお墓参りに行くという風習も廃れていくかもしれませんが、ご先祖さんを敬い感謝する、亡くなった人を想う気持ちは忘れてはならないと思います。


そんな時代の流れもあって、ボクたちも貫太の死をきっかけにお墓を持たない選択をしました。

でもおじじの納骨に立ち会って、遺されたものの拠り所になるのなら、お墓に入り孫やひ孫、その先の子孫がお参りに来るというのがやっぱり理想なのかもしれません。


死後のことはわかりませんが、ボクは人は死んだらまったくの無になると思っています。これはあくまでも本人目線で、意識はもちろん、感情、魂とかのない無の世界です。あの世なんてなく、死んだらそれで終わりです。

でも遺されたものたちは、天国だったり、極楽浄土だったり、生まれ変わりだったり、宗教や習慣のもとに、亡くなった人は死後の世界でも生き続け、現世を見守ってくれていると信じたいと思っています。お墓やお仏壇に手を合わせるのはそんなふうに思うからだと思います。


ボクも祖父母や父や貫太、そしておじじがいつも見守ってくれていると思っているし、お盆には帰ってくると信じています。

それが遺されたものの想いなのかも。


亡くなって無になったおじじですが、生きているボクは、桜が咲くうららかな春の日に極楽浄土へ旅立ち、どこかで見守ってくれていると思っています。