88年 | 風を感じて

風を感じて

アラカンに突入。セカンドライフ、ぼちぼち行こか。

先日、母の米寿のお祝いで石川県の山代温泉に行ってきました。


18年前に母の古希のお祝いでも訪れた同じお宿。

全部で7部屋、温泉も小ぶりで、チェックアウトするまで女将さんと中居さんの二人しか見なかったほどこじんまりしていますが、家族で貸切れるイイ感じの料理旅館です。


母と兄夫婦は福井から、わが家は京都から、娘一家は富山から、甥っ子、姪っ子たちはそれぞれ住んでいる東京、神奈川、愛知から三三五五集まりました。子供、孫、ひ孫総勢13人。


母の米寿祝いでしたが、サプライズでボクと嫁さんの還暦もオマケで祝ってもらいました。

2人ともまだ59なんやけど。

夫婦で赤いちゃんちゃんこデビューです。


でも、まぁお祝い事は多い方がええけどね。


越前そば、ぶり大根、のどぐろ、ぶりしゃぶ、能登牛・・・

料理はサイコーでした。

母は全部残さずペロリと食べていました。

百歳まで生きた祖母もよく食べていました。

やっぱり食べること、食への執着が長生きの秘訣のようです。



便乗の還暦祝いで、子供たち、兄夫婦、甥っ子姪っ子たちからたくさんの贈り物を頂きました。

そして孫っちからも。

ほとんど娘作ですが、孫っち直筆の絵?です。


母にはお出かけ用の上着と、父と築いてきた家族の肖像画をプレゼント。

父と母のふたりから、こんなに家族が増えたんやで。

これからまだまだ増えていきます。

できる限り見届けてほしいものです。

そしてボクたち夫婦もこんなふうに自分の家族が増えていくのを見届けていきたいです。


食事のあと、わが家主催のビンゴ大会。


孫っちは急に大勢の中に連れてこられて、娘や婿っちに抱っこされて、いつもの人見知りモードを発動していました。

いつもビデオ通話でお馴染みのおじじ、おばばにもちょっとツレない感じでしたが、徐々に調子を取り戻してきて、もうこの頃はビンゴマシンを元気に回してくれていました。


宴のあと、兄が用意したスライドショーをみんなで観ました。

ボクも知らないような88年の母の歴史と、わが家のルーツを兄がまとめてくれました。


母の両親、ボクの祖父母の結婚当時と今のボクたちと同じ還暦の時の写真。

祖母は信仰心に厚く、観音さまのように穏やかで慈悲深く、怒ったことろを見たことがないとても優しいひとでした。

祖父は少し気難しいところがありましたが、ボクたち孫には優しく、手先が器用でいろんなものを一緒に作って遊んでくれました。

ふたりが亡くなったとき、ボクはいずれのときも海外赴任中で、お葬式に行けなかったのが今でも心残りです。


そして、昭和10年に今も存命の2歳上の兄に続いて、母が長女として生まれます。


太平洋戦争開戦の年、3人兄妹となった母一家は満州に移住。満州でさらに妹と弟が生まれます。


日本では戦時下でしたが、この頃が母一家にとって豊かで穏やかな時間だったようです。


当時、満州で伯父の小学校の担任だった先生が、嫁さんの伯父さんだったというのが、50年後のボクたちの結婚式でわかりました。

不思議なご縁です。


昭和20年にソ連の侵攻と日本の敗戦によって、満州国は崩壊し、一家の生活は激変します。


ソ連軍に追われ、住んでいた家から小さい弟や妹を乗せてリヤカーで逃げたそうです。

父である祖父は配給があると騙されて、ソ連軍に捕まり、シベリアに抑留され、そして同じ頃に1歳の弟を肺炎で亡くします。

隠れ住んでいた家に突然ロシア人が押し入ってきて、屋根裏に隠れたこともあったそうです。

それでも10歳の母は兄(伯父)と二人で、タバコや祖母の作ったおはぎなどを市場で売って家族を支えていたそうで、たくましい兄妹だったようです。


終戦から1年、母一家はようやく引き揚げ船で日本に帰ることができました。

幼い子供たちと祖母は引き揚げ船から、今も中国奉天の地で眠る弟に手を合わせたそうです。

今でも母はこのときのことを思い出すと涙を流します。


引き揚げ後、一家は福井に戻って暮らしましたが、住んでいた市営住宅が火災に遭ったり、子供たちで遠くまで行商に出たり、苦労は絶えなかったようです。

帰国してから2年後に祖父がシベリアから帰ってきて、ようやく家族そろって安寧の生活がはじまります。


貧乏ながら頭が良かった母は、奨学金でボクの母校でもある地元の高校に進学、首席で卒業して地元の電力会社に就職します。


その職場でひと回りも年上の父と出会い結婚。

2人同時に汽車で1時間ほど離れた営業所に転勤になり、毎朝一緒に通ううちに愛が芽生えたそうです。

ふたりが仲良くなっていった馴れ初め話も初めて聞きました。


その後、兄とボクが生まれ、60年が経ち、ボクももう還暦を迎えます。

もし父が生きていたら今年で100歳になります。


スライドを観ながら、改めて母が歩んだ88年を辿ってゆくと、終戦時の激動の何年か、母が生き延びてくれていなかったら、今日のボクは存在しなかったんだなあとしみじみ思います。

もちろん兄や子供たち、孫っちにも会えていませんでした。


今は認知症になり要介護の母。

気力や感情表現は相変わらず乏しくなっていますが、少し症状が良くなったんじゃないかと思うほど元気で、大抵のことはひとりできるし、歩くこともできます。

同じことを繰り返したり、生返事のときもありますが、会話もできます。

子や孫、ひ孫の顔もよくわかっています。


子供のときのたくましさはまだまだ残っています。

今更ですがもっと親孝行しなくちゃと思います。