5月2日に 夫と二人で戸隠神社に行った


4月29日に 群馬の谷川岳に登り

5月1日に 新潟の糸魚川市能生でマダイ釣りをして

その後に 急に行くことになったので 何の準備も下調べもないままの参拝だった


戸隠神社には 2009年7月に行く予定にしていたが

ちょうど高速料金が安くなった最初の3連休と重なり

出発前のニュースで 50キロ渋滞が伝えられ

戸隠まで行けても 帰りの飛行機に間に合うようには帰って来られない!

と 泣く泣く涙を飲んで 行けなかった いわくつきの場所


夫も 一度 戸隠には行ったことがあるけど

その時は 戸隠そばを食べ 中社だけお参りして

奥社は気になったものの その時は行かなかったと言っていた




5月2日に 朝4時半から3時間かけて 宝光社⇒中社⇒奥社にお参りしたのだが

実は 前日の夜 新潟から長野市内のホテルに向かう途中に

戸隠を通ったので もう暗くなっていたが 宝光社の駐車場に車を停めて

ちょっと 境内の様子を見に降りてみたのだった


その時 夕方の神社の嫌な雰囲気は感じず

なんだかわからないけど 体の奥深いところから

喜びが湧き上がって来る感じがして驚いた


やった!やった!ばんざ~~!と叫びたいほどのうれしさだった



明日 いよいよ念願の戸隠神社にお参りできる!という喜びなのか?

よくわからないが 車に戻ってからも しばらく続いていた


翌日は その喜びは感じなかったので あの喜びは何だったんだろう?

と ちょっと不思議だった




家に帰って 



voice style vol2 パワースポット神社』に 

戸隠神社の事が書いてあるのをあらためて読んで 少し驚いた


神話の天の岩戸開きとは 自我を開くということだったんだ!

自我を開くとは 抽象的でわかりにくい

そもそも 自我とは その人の選択機能であるので

自我が弱いと自立できない 自分で自分の人生を選択できない

自分の行動に責任がとれないということにもなりかねないのだが


ここでいう自我とは その自我ではなく 

見栄やプライドで覆い隠している部分と言った方がわかりやすいかなあ


見栄やプライドで隠さなくてはいけないと思っている

ちっぽけな自分ではなく 

見栄もプライドも取り払い 何も取り繕ったり 

コントロールしたり 嘘をついたりしなくても

ありのままの状態をそのまま 受け入れられる器のでかさというか


まあ そんな感じが 天の岩戸開きなんだろう

でも 今まで 見栄やプライドで自分を守っていたんだから

それを取り去ることは ほんとに怖くて怖くてたまらないはず


できることなら そんなことはしたくない

せずに済むなら いつまでも 岩戸の中に隠れていたい


でも もう一人の自分は そんな岩戸の中に居続ける事に

嫌気がさしていて もうここを出たい!とも 思ってるのだろうと思います


で そんな自己との葛藤が 自分の中の天の岩戸開きということらしいです


以下 本からの抜粋です


その自我と言う岩戸を開くには3つの要素が必要に成ります。

1.本当に開きたいという意志力




心から開こうと思わなければ開きません。その意志力を与えてくれるのが、奥社
天手力雄神
奥社にお祀りしてある神様)が岩戸に手をかけ,岩戸をあけ天照大神を岩屋からお出ししました。世の中は再び明るくなり、悪い神々は、にげ去りました。天手力雄命は、また天照大神が岩戸にお入りになってはたいへんと、岩戸を「エイッ」と持ち上げ下界へなげすてる。その岩戸は宙を飛んで日本のだいたい真ん中に落ちるが、この時、天手力雄命が放り投げたのが、「戸隠山」であるという話は、「古事記」や「日本書紀」にある。

2.知 恵
アマテラスオオミカミが、再び姿を見せてくれることを願い、かつてはたくさんの神々が知恵を絞る。私達が「どうしたら自分の魂が輝くのか?」と深く思慮する時、知恵の部分を与えてくれるのが、中社のアメノヤゴコロオモイカネノミコトです。


3.喜 び
宝光社のアメノウワハルノミコトからもたらされる、春のような喜びの力




ここまで書いて ちょっとびっくり!

宝光社って 喜びの力なんですね!

お参りする前日に感じた 何とも言えない喜びの感じは

もしかしたら これだったのかもしれません