幸福の科学 主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生 書籍・観自在力 参照です。
🍓 「宇宙を超えるような巨人」の存在の可能性
この宇宙空間というものを捉えていくなかにおいて、考えなければならないことは、「物の大きさ」ということの本当の意味についてです。言葉を換えるとするならば、「極微と極大」ということになりましょう。
何をもって「小さい」というか。何をもって「大きい」とするのか、この考え方です。例えば、私たちが電子顕微鏡で覗いてみると、小さな水たまりや水滴のなかにも無限の宇宙があるかに見えます。
同じように、大宇宙の姿そのものを見てみると、もしかしたら、この大宇宙の広がりというものも、電子顕微鏡を通じて見ている世界のようなものかもしれないのです。人間の目から見れば、確かに宇宙空間は広大無辺なものですが、もし、「この宇宙空間を超える、もっと大きな存在」があったとしたならば、この宇宙は、いったいどのように見えるのでしょうか。
それはどのような姿だと思いますか。昔の神話のなかによく出てくるような巨人でもいて、この宇宙空間が、その巨人にとっては、ほんの小さな一つの水たまりのようなものだとすれば、どうでしょうか。
みなさんが大宇宙だと思っているものが、実は道路のなかにできた水たまりぐらいの存在であったとしたなら、そして、その水たまりをひとまたぎにできるような巨人が存在するとしたならば、みなさんはどう思われるでしょうか。
大宇宙の星々が、実は水たまりのなかの粒子ぐらいにすぎないのだとしたら、はたして、どうされるでしょうか。そのような巨人から人間というものを見たならば、いったいどのように見えるとお思いになるでしょうか。
私は、非常に不思議な可能性を感じるわけです。「そうした巨人の存在を、ないと言い切れる人が、はたしているかどうか」ということです。もし、そうした巨人がいるとしたら、あの「ガリバー旅行記」の新しい物語ができないこともないと思えるのです。
「そのような巨人のような目から見た宇宙観や地球観、人間観というものは、はたして、どのようなものであるのか」ということです。こうした「宇宙を超えるような巨人」というものの存在の可能性があるかないかといえば、やはり、私は、「ある」というほうに賭けてみたいと思うのです。
というのは、それが論理的に可能なあり方ではないかと思うからです。身長二メートルにも満たない人間の尺度が、この広大な宇宙を測る尺度になるには、やはり、あまりにも小さすぎるのではないかと私は感じるのです。銀河系の直径を一つの物差しにするような考えもあってよいのではないでしょうか。
🍓「宇宙即我」の体験
私たちは、ミクロの世界からマクロの世界まで、非常に不可思議な大きさのなかで住んでいるように思いますが、これを霊的な目から見てみると、宇宙の大きさ、地球の大きさ、人間の大きさがどう見えるでしょうか。
霊的巨人ー神仏という存在があるとするならば、おそらく、この宇宙は、小さな水たまりのようなもの、あるいは野球のボールぐらいの存在に見えているであろうと推定されるわけです。
「地球に住んでいる小さな存在である私たちも、霊的に目覚め、悟りを得、覚者となったときには、宇宙即我の体験をする」ということを、私は話したことがあります。この「宇宙即我」の体験は、実は大きくは二段階からなっています。
第一段階の宇宙即我は、自分の身体が非常に巨大になって、地球を眼下はるかに見下ろすような姿となるものです。そして、第二段階としては、「自分の体が宇宙大にまで広がり、宇宙と自分とが一体になる」という宇宙即我があります。
この第二段階の宇宙即我は、「神即我」という段階に近づいてきていますが、地球に住む魂存在である私たちも、霊道を開き、最大の悟りを得たときには、霊的肉体が、魂空間が、つまり魂の大きさが宇宙空間大に広がるのです。
そして、「この地上に住む、一メートル数十センチの人間の魂が、宇宙大に大きくなりうる」ということは、すなわち、本当の宇宙の大きさは、実は、みなさんが思っているよりも、はるかに小さな存在であろうと推定されるわけです。
「大宇宙の大きさから見れば、一つの点のような、針の先でつついたような小さな存在である私たちの魂が、無限の拡大をして、宇宙を包み込むところまで伸びていくことができる」という可能性自体が、「実際の宇宙の大きさは、どの程度のものか」ということを物語っているように私には思えます。
すなわち、「この大宇宙を、野球のボールか何かのように手に取って見ている存在がある」と考えたほうがよいのです。したがって、宇宙の三次元構造も、実は多層な構造を取っているのです。
私たちが肉眼で見ている小さな水たまり、”小宇宙” のなかにも、顕微鏡で見てみると、そこには拡大された宇宙があるように、また、私たちの肉体自体が内的宇宙を構成しているように、「この宇宙自体も、一つの物体をつくっている一要素にしかすぎない」という観点があるのです。
このように、「宇宙というものは、縦・横・高さが一定のものではなくて、そのなかに多重なる宇宙を含んでいるのだ」と考えてよいのではないかと思います。
🥑 霊的存在としての人間・・・
🥑 霊とは「姿形なき知的エネルギ―」・・・
ーーーーー〇ーーーーー〇ーー
(私文:不思議な世界)
この ”極大と極微” の説法は、おそらく、大川隆法総裁先生自身の霊的体験から来ているものだと推測されます。反省修法にも、この ”極大と極微” の観点がとても大事だと説かれています(瞑想の極意 幸福の科学出版刊)。
”極大と極微” の観点から自分を見直してみるという反省法です。「自分はつまらないものと思ったとき、卑小な自分と思ったとき、とるに足らないと思ったときには、やはり、神仏の子としての偉大性ということを考えなければならない。気がつかなければならない」しかし、「自分が成功し自分が偉くなり他の人々を自由にできると思ったときには大宇宙の一員としての小ささということを知らねばならない」とあります。
本当に、主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生の説く仏法真理は私たちの信仰心を通して、数限りない真理を教えてくれているのです。
最後まで読んで頂いて、本当に、本当にありがとうございます。是非とも、幸福の科学 主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生 書籍・観自在力 を読んでください。