大川隆法総裁先生 書籍・沈黙の仏陀 参照です。

 

五停心観 心を止める五つの修行

「不浄観」ー貪りの心多き人が修する観法(すでに前回、投稿)

「慈悲観」ー怒り多き人が修する観法

 

 

それから、二番目に「慈悲観」というものがあります。これは、「瞋」ー瞋恚、怒りを抑え、収めるための方法です。ある人に対して、カーッと怒り、もう腹が立ってしようがないということがあります。


 

かつての友人や隣人、あるいは自分の母親、父親、兄弟たちと、いろいろな争議がおきます。あるいは嫌いな人が出てきて、心に葛藤をつくります。このようなときに、真理を知っている人は、ある程度自分を抑えられるのですが、真理を学んだことがない人は分からないので、その怒りをストレートに外に出してしまいます。


 

カーッと怒って、そしてさらに増幅させ、お互いに血みどろの争いになっていくわけですが、そのようなときにこの慈悲観を行うのです。これは、怒り多き人が修する観法であり、好きな人、嫌いな人、どちらでもない人、そうした人たちに対して平等に接しなければいけないという、平等視をするのです。


 

「みんな同じく神仏の子なのだ。自分にとっては、いろいろと好き嫌いがあったりするけれども、みんな神様がよしと思ってつくられた人たちなのだ。そういう魂なのだ」と、まずはいったんゼロに戻して、平等視をしようとするわけです。


 

そして、差別することなく、あらゆる人びとに、「抜苦与楽」、すなわち苦を抜いて楽を与えてあげようと観じる心が大切です。なかなか難しいことではあると思いますが、少なくとも、ストレートに怒りを出している状態に比べると、このように思おうとするだけでも、マイナスのものからプラスのものに切り替わっていきます。


 

そうした中和作用が出てきて、心が穏やかになってくるわけです。きょう会社で、同僚あるいは上司とものすごい喧嘩をした。家に帰ってきてからも、もう悔しくて悔しくてしようがない。「あんな人は死んでしまえばいいのだ」と思う。


 

「自分に対して、ものすごくひどいことを言った」と、カッカ、カッカします。このようなときに、この慈悲観をして、「ああ、私は好き嫌いで人を見ていたのではないだろうか。人に対してもっと平等に見なければいけない。


 

自分が好きな○○さんも、他の人から見たら、嫌いだということもある。自分にとっては相性がよく、うまが合って好きなのだけれども、その人を嫌いだという人もいる。好き嫌いというのは、ずいぶん相対的なものなのだ。だから、自分の主観だけで全部決めつけてはいけないのだ。


 

自分がカーッと怒っているあの人にも、いいところが何かきっとあるに違いない。そのいいところを見つけられなかったという自分自身に、何か問題があったに違いない」と考えていくわけです。


 

このようにして、平等に人を見ようという心を起こし、人と接するときには、「ああ、あの人も何か苦しいことがきっとあるのだな。あんなひどいことを自分にした、あるいは言ったということは、何か悩んでいることがあるのだろう。その悩みはいったい何だろうか。


 

その悩みをなんとかして楽にしてあげたい」と考え、そして、「もっと喜ばせるようなことは何かできなかったか。彼を責めることばかり考えていたけれども、何かやさしい言葉をかけてあげられなかったか。私ができるやさしい行為は何かなかったか」と考えていくわけです。


 

平等に見ようとし、そして、「彼または彼女の苦を抜き、あるいは楽を与えることは何かできなかったか」ということを考えていくうちに、その怒りがスーッと引いていきます。これが、五停心観の二番目の「慈悲観」という観法です。


 

「因縁観」ー愚痴多き人が修する観法
「界分別観」ー自我が強く驕り高ぶる人の修する観法
「数息観」ー心がよく乱れる人の修する観法

 

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(私文:)
かつての自分は、とても短気で、人前でも何でも関係なく、自分の怒りを最大限に出してしまうようなことを何が悪いと、逆に開き直ってしまうような人間でした。何十年も前のことですが、そんなことは普通に行われていたときの話ですが、そのときにこの「慈悲観」が出来たかと言えば、難しいのではないかと思います。しかし、今であれば、大川隆法総裁先生の言っていることがよく分かります。平等に見ていくことがどれほど大事なことなのかが分かります。感情の起伏をなくし、平らに他の人を見ようとする教えです。中道の教えにもつながることだと思います。

 

 

最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございました。
是非とも、大川隆法総裁先生 書籍・沈黙の仏陀 を読んで下さい。