大川隆法総裁先生 書籍・大悟の法 参照です。
完璧な人生ではなく、よりよい人生を
交通事故死の三倍以上もある自殺
「罪を許す力」について述べていきます。これは一つの宗教的原理です。罪を許す力というものは、学校で学ぶことはまずありませんし、また、実社会に出てからも、正式に学ぶことは、まれであると思います。
マスコミによって、毎日のように、罪を追求する報道がなされているため、みなさんは、 ”罪を許さない力” のほうは自然に学んでいると思いますが、「罪を許す」という方向の学びの機会は非常に少ないのではないでしょうか。
今回、こういう話をしようと思い立ったのは、一つのデータによります。日本における交通事故の死者は、最近は減少ぎみではありますが、毎年一万人弱ぐらいいます。しかし、それよりもはるかに多くの死者がでているものがあります。それは何であるかというと、実は自殺なのです。
平成不況が長引いていることも影響しているのでしょうが、ここ数年は、年間三万人を超える人が自殺で亡くなっており、交通事故の死者の三倍以上になっています。その内訳は、男性が二万人ぐらいで、残りが女性です。これは大変な数です。
一世代を三十年とすると、三十年あまりのあいだに、やく百万人が自殺する計算になります。これは、大きな戦争をしているのとほとんど同じです。百万人もの人々が一世代のうちに死んでしまうというのは、戦争を続けているのと変わらないのです。
実際の戦争でも、毎年三万人も死に続けるというのは大変なことです。あのベトナム戦争においても、アメリカ側が毎年三万人もの戦死者を出しつづけたということはないでしょうから、これはかなりの数だと言えます。
なぜ、このような事態が続くのでしょうか。日本では、自殺の問題に対する取り組みが、まだまだ甘いようです。それは、自殺の原因を解明し、それを防止するための、基本的な哲学、あるいは宗教的な教えや道徳原理など、その根本の柱になるものが、きわめて弱いからだと思うのです。
たとえば、西欧のキリスト教社会では、宗教教育において「自殺は悪である」と教えられているので、「死にたい」と思っても、「自殺したら、天国に行けないのではないか」と考えるわけです。それでも自殺する人はいるでしょうが、一定の抑止力は働いています。
ところが、日本の場合には、唯物論的な土壌もあって、「死ねば終わりだ」と考えている人も数多くいますし、あの世を信じている人であっても、「死ねば、この苦しみがなくなる」と考えている人もいます。本当の意味での宗教知識が非常に不足していると言わざるをえないのです。
自殺者は死後どうなるか
自殺者は必ず地獄に行くのでしょうか。答えは、「百パーセント、地獄へ行く」ということはなく、「地獄、もしくは地獄以前の段階にいることが多い」ということです。
なかには地獄まで行っている人もいますが、地獄以前の段階で、自分が死んだことが分からずに、地上に執着して、地上の人と同じように生活している人や、あるいは、地縛霊となって、自分が死んだ場所などに漂っている人が、数多くいるのです。
そのように、この世の人や物にまだ引っかかっていて、地獄に堕ちることさえできない人たちがいるわけです。もちろん、地獄に行けば、苦しみは、よりはっきりと出てきますが、そこまで行けない人が多いのです。では、自殺者は絶対に天国に行けないかといえば、そうでもありません。
たとえば、歴史上の人物では、西郷隆盛も、自刃しているので、自殺は自殺でしょう。あるいは、乃木大将のような殉死も、やはり自殺でしょう。しかし、彼らは地獄へ行っているわけではありません。
死んだ当時は苦しみがあったでしょうが、その後はきちんと天上界に還っており、神々の一人になっています。彼らが地獄に堕ちなかったのは、「生きていたときに、澄みきった心を持っていた」ということもあるでしょうし、「数多くの人から敬愛されていた」ということも大きかったと思います。
そういう別種の原理が働く場合も、ないわけではないのです。しかし、たいていの場合は、すなわち、この世からの逃避として自殺するような場合は、天国に行くことはまれであり、ほとんどないと考えてよいでしょう。
特に、真実の世界のことを知らずに死んだ場合には、天国に還ることは非常に難しいですし、そういう人は、天使たちが行って説得しても、受け入れないのです。この世において、他の人の説得を受け入れなかったような人は、あの世においても、やはり受け入れることができないというのが実相です。
死に急ぐ人に見られる完全主義的傾向
ここで、自殺の原因について考えてみたいと思います。人間は、この世に生き、幸福を求めて、さまざまな努力をしています。また、幸福を得るための教えも説かれています。しかし、不幸体験というものは、どうしても避けられません。幸福というものがあるならば、相対的な意味において、その反対の不幸というものも、この世には存在します。
その不幸体験のなかで、人は自殺するわけです。自殺をする人のなかには、幸福のなかで死んでいく人もいるかもしれませんが、数は少ないでしょう。通常は、不幸のなかで死んでいくことのほうが多いのです。なぜ人は自殺するのでしょうか。
その背景をたどってみると、幾つかの原因が考えられます。たとえば、病気を苦にして死ぬ人もいます。「もう、これ以上、苦しみが続くには嫌だ」という思いから自殺する人は数多くいます。最近は老人の自殺も増えています。
「体の具合が悪く、家族に迷惑をかける」「生きがいがない」というよなことで自殺する老人も跡を絶ちません。若い人の場合には、恋愛感情のもつれや結婚問題、離婚問題などで自殺する人もいます。また、不況が続くと、経済問題での自殺があります。経済問題を苦にして、逃避したくて自殺をする場合です。
それから、パーセンテージとしては低いですが、名誉を理由とする自殺もあります。政治家などの場合は、何か事件に巻き込まれたり、不名誉なことが起きたりしたときに、名誉の死を選ぶ人もいます。このように、自殺には幾つかの原因がありますが、いずれにしても、この世で生き抜くのがあまりにも下手な人が多すぎるようです。
そこで、その理由を少し考えてみたいのです。通常の宗教の教えでは、仏の子、神の子としての生き方というものがずいぶん説かれているので、ここでは、それとは逆の話になるのですが、自殺する人は自分自身や他人に対して、あまりにも完全を求める完全主義的傾向が強く、その潔癖性のあまり、死に急ぐ人が多いように思うのです。
こういう人は、 ”病原菌” に対する抵抗力、すなわち、生きていくうえでの挫折や失敗、あるいは他人からの非難や批判などに対する免疫、抵抗力が、少し弱すぎるのではないでしょうか。その根本にあるものは、やはり、自分に対する完全主義的な要求、あるいは他人に対する完全主義的な要求でしょう。
人間は不完全な生き物・・・・
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(私文:音のない時間)
最近よく感じることなのですが、本を読んでいるとき、ぼやッとしているとき、フッと気がつくと感じる静寂な空気、静寂なシーンとした音のない時間、心が癒されて、心が静まっている感じがします。音のない時間はとても胸に染みわたる時間になっています。音がないと感じるときは、空気自体がなにか、エーテルのような感じがして、昔味わった、山小屋の外から眺めた夜空の神秘的なあの感じを思い出します。瞑想をしているような不思議な気持ちです。