大川隆法総裁先生 書籍・悟りに到る道 参照です。
三途の川の渡り方
それから、だんだんこの川に近づいてみますと、人によっては、濁った川に見えることもありますし、血の池のような川に見えることも、清流に見えることも、深い澱みのように見えることもありますが、とにかくこの川を渡らなければいけないということだけはわかります。
そこで、「では、この川をいったいどうやって渡ろうか」と、みな思案するのです。川を渡るのは怖いですから、「ほんとうに渡れるのかな」と思案するのですが、「とりあえず渡らなければいけない」という内なる声に導かれて、川を渡ろうとします。
この三途の川の渡り方が何種類かあります。ここで自分がどういう渡り方をするかによって、その後どいうふうになってゆくかが少しわかりますから、あらかじめ教えておきます。おそらくはその後のコースが悪いであろうと思われる方は、ここで溺れかけながら渡ることになるのです。
濁流に呑まれそうになって、はあはあ言って、もう身体も着物もビショビッショ、息も絶え絶えになって、実際に死ぬことはないのですが、溺れ死ぬのではないかというような、それほどの苦労をして泳いだりフラフラしながら、この川を渡ります。
そのときに川のなかをよく見てみますと、川の底にいろいろなものが落ちています。川を渡っていったときに、名刺であるとか、預金通帳であるとか、生前いろいろと執着していたようなものが落ちてゆき、たくさん沈んでいるのです。
これは、三次元(この世)的な物体ではなく、想念と言いますか、その象徴がそこで落ちてゆくのです。そのため、名刺などいろいろなものが下のほうに落ちているのです。お金とかがたくさん沈んでいます。それがキラキラ見えていますが、取ろうとしても取れません。
けれども、これを見て渡るときに、「ああ、どうやらあの世に来たときには、生前に執着していたものを置いていかないとだめなんだな」というようなことを学ぶようになるのです。そういうものを多少知るようになります。この三途の川を渡るときに、あの世に来たということが、ほんとうによくわかるのです。
「ほんとうにあの世へ来たんだな。これを渡ったら、娑婆と言われる、この世の世界にはもう帰れないんだな」ということが、しみじみわかります。そして、昔、親元を離れてひとりで都会に出てきて働いたときのような心細い感じを味わいます。
「これからまた、自分ひとりで生きてゆかなければいけないんだな」というような心細さが出てきます。このようにして、その川をなんとか歩きながら渡る方が一種類です。こういう方はわりに多いのです。それから、川のところへ来たときに、渡ろうとしたら、水面を浮くようなかたちでスーッと渡ってしまう人がいます。
水に全然浸からずに、スーッと移動するかたちで渡る方がいます。こういう方は、かなり出来がよい方です。魂の比重が軽いと言いますか、そうとう穢れが少ないのです。魂はあまり汚れていないので、川のなかに入らず、その上をスーッと動いてゆくのです。
「まるでイエス様のようだな」などと思いながら渡ってゆくのはほんとうに気分のよいものです。それから、人によっては、ときどき舟が出てくることがあるのです。昔は六文銭を持ってゆかないと渡れないなどとよく言われましたが、渡し舟が出てくることがあります。
そして、それに乗せてもらえる人、乗せてもらえない人があります。川が荒れている場合、「乗せてくれ」と交渉するのですが、乗せてもらえる人と乗せてもらえない人がいます。そのあたりから、また反省が始まるのです。乗せてもらえない方の場合、生前の自分の肩書や偉さーーどれほど偉かったかということを、一生懸命言うのです。
たとえば「自分は○○という全国的に有名な会社の社長だった」とか、「大金持ちなんだ」「自分は家柄がいい」「学校がいい」「自分の子供が出世している」「うちの息子は何をしていると思っているんだ。偉いんだぞ」などと、とってつけたような理由を一生懸命言っているのです。
しかし渡し守りが、「おまえさんのその姿は何だ。よく見てみなさい」と言うと、ほんとうに貫頭衣のようなみすぼらしい服を着ているだけで、まるで囚人か何かのような気がして、まったく無力なことを感じるのです。これもひとつの修行になっているのです。この世的なものは何も通じません。
会社の名前などを言っても、全然通じまん。重役だと言っても通じません。 何も通じないのです。乗せてくれるか、くれないかも、さっぱりわからないのです。それから、ごく稀にではありますが、橋がかかっていて、そこを渡れることがあります。
もし橋がかかっていて、そこを渡れたとしたら、またこれもそこそこよい待遇なのです。「あなたは、この世的にはそれほど偉くなかったかもしれないが、霊的に見たら、そこそこ尊重される立場の人間なのだ」ということを意味しているのです。
このようにして、向こう岸のほうに渡ります。川幅は、本人の苦しみに応じて、幅広く見えたり狭く見えたりしますが、通常はだいたい五十メートルから百メートルぐらいの川幅にみえるはずです。そこを泳ぎ渡って向こう岸に着いた場合は、もう服も何もかもぐしょ濡れです。
ぐしょ濡れになって、ふらふらして上がってきて、やれやれと思って、もう死んでしまおうと思います。たいていの場合、そこで、二人ほどの老人が出てきます。おじいさんとあばあさんの二人が出てきます。
そこでは、たき火をたいていることが多く、「あなたは、ずぶ濡れになりましたから、その服を乾かしてあげましょう。服をお脱ぎなさい。」と言うので、「ああ、あの世でも親切な人がいるものだなあ」と思って服を脱いで渡すと、そばの大きな枯れ木の枝に服をかけてくれるのです。
すると不思議なことに、その木がグーッと曲がる人と、曲がらない人がいます。同じくぐしょ濡れなのに、ある人の衣をかけたら曲がらず、別の人の衣をかけると枝も折れよとばかりに曲がるのです。それを見ていて、おじいさんかおばあさんのどちらかが、ニタニタ笑いながら「あんたは、これからたいへんだよ」などと言います。
その木の曲がり方というのは、結局生きていたときの罪の重さを意味しているのです。ここでグーッと曲がってゆく場合には、「もう危ないぞ」という意味です。また、罪の軽い人の場合には、木にかけたらすぐに乾いてしまいます。しかし、重い人の場合にはなかなか乾きません。
そして、着物はまた返してくれるのですが、そこでだいたい行き先を言ってくれます。「あなたは、ここをまっすぐ行くと、峠に行きあたるから、峠のところで左の道に進みなさい」「あなたは、まっすぐ行きなさい」「あなたは、右に曲がりなさい」というようなことを、その衣の重さに合わせてアドバイスしてくれます。
この衣というのは、実は幽体といって、霊的な身体の外側の部分なのです。この幽体の部分に、その人のこの世的な想念、念いーーどんなことを考えたか、行ったかというようなことが染みついていて、すでに色がついているので、霊体としての重さがあるのです。
これを着てゆくわけですが、それによって道が分かれてゆきます。そして、しばらく歩いていって、山道を上がるのが普通です。いろいろな道がありますが、霊的な感覚でゆくと、その道の長さは、川を渡ってから、早い人で三日、平均すると七日から十日ぐらい歩く感じになります。
その程度の日数が経ったような感じがする距離感覚です。そのぐらいの間を霊界の景色を見ながら歩いてゆく感じになります。
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(私文:川の底にある執着)
三途の川の底には、自分の大好きなものが沢山落ちています。人間の欲には限りがありません。どこまでも貪欲に求めてしまいます。その欲を抑えて、心を神様の方角に向ける努力をしなくてはいけません。いつもギリギリの選択のところで生きている私です。心しなければなりません。気を付けなければ!!
最後まで読んで頂いて、 本当にありがとうございました。
是非とも、大川隆法総裁先生 書籍・悟りに到る道 を読んで下さい。