大川隆法総裁先生 書籍・沈黙の仏陀 参照です

五停心観 心を止める五つの修行

 

まず、五停心観の第一番目に出されるのが「不浄観」です。
これは有名なので、ご存じの方も多いと思います。不浄観とは、「清らかではない、汚いものを観る」ということです。そして、その対象はいったい何かといえば、「貧」なのです。「心の三毒(貪・瞋・痴)」の貧です。

 

要するに、貪りの心が多い人が修する修法、あるいは心の貪りが満ちているとき修すべき修法なのです。その貪りのなかでも、不浄観がよく使われる場面というのは、いわゆる性欲、情欲です。

 

二千数百年前の釈迦教団では、出家した男女の自由な結びつきは認められていませんでしたので、お坊さんも尼さんも、この性欲をいかに抑えるかということが大事だったのです。現代ではそこまで厳密なことは言えませんが、それでも、独身者であれば、淫らな性欲、社会上是認できない異性との関わり、あるいはそうした妄想を制する方法でありましょう。

 

また、すでに結婚している方であれば、社会上是認できないような三角関係や浮気、あるいはそれ以外の醜聞などに心が揺れるときに、これを止めるための修法が不浄観なのです。

 

当時のインドにおけるこの修法は、かなり端的であり、現代人には多少きつすぎるぐらいの修法です。「異性のことに心が執われて、どうしようもない。煩悩が燃え立って、そのことが頭から離れない」というときに、その人を墓場によく連れていったわけです。

当時は、墓場といっても、死体をそのまま転がして、たくさん放置してあったのです。それで僧侶たちは、墓場の死体が着ている着物を集めてきて、それを縫い合わせて衣にし、水で洗って、柿色に染めて着ていました。

 

これを「糞掃衣」といいます。そうした死体から取った衣を身につけることで、執着を断つ修行をしていたのです。ですから、墓場にはずいぶん縁がありました。現在、お寺が墓場のなかにあるのも、やはり縁があるのかなと思いますが、当時から墓場には縁があって、心が乱れた場合には、「墓場に行って、死体をよく見てこい。死体の前で禅定して帰ってこい」と言われて、よく不浄観をしていたのです。

 

すると、殺人で亡くなった人や、行き倒れで亡くなった人、病気で亡くなった人、飢え死にした人など、いろいろな方の死体がどんどん運ばれてきては、墓場に置いていかれます。そして、その死体が腐乱していき白骨になっていく姿を、ずっと見ているわけです。

 

ですから、いったんそれを経験すると、その後は墓場に行かなくても、禅定しながら、腐乱していく死体の姿を心に描くことができるようになります。

 

いま自分の心は燃え盛り、煩悩でいっぱいになっているけれども、自分を燃え盛らせる煩悩の対象となっている、その若くて美しい女性、あるいは女性から見れば素敵な男性も、やがてはあの腐乱死体のように腐り、そして白骨になっていくのだー。髑髏になった姿を心に描くことを「白骨観」ともいいますが、このように死んでいく姿、さらに死体の姿を思い浮かべる観法が不浄観です。

 

この不浄観を行うと、燃え盛っている炎がたちまちにして鎮まってきます。「ああ、いやだ。いま若い女性のことを思ったけれども、この人も死んで死体になって、腐って白骨になっていくのだ」と想像すると、とたんに煩悩の炎が消えていきます。

 

あるいは、若い女性にはいやがられるかもしれませんが、あまりにも女性が美しく見えて心が執われる場合には、お坊さんたちは、執着を断つための方法として、白骨観だけではなくて、「その皮膚を一枚めくったあとの姿を想像してみろ。『女性は美しい』と言うけれども、これは皮一枚のことではないか。

 

この皮一枚を取った姿を想像してみれば、とてもではないけれども、美しいとは言えないだろう」ということで、そうした姿を想像するのです。もっと極端になると、内臓のなかも想像します。「内臓のなかを思ってみなさい。どうだ、それでも美しいと言えるか」ということです。こうした方法で、死体の姿、白骨の姿を想い浮かべる、あるいは皮膚や皮を取った姿を想像する、あるいは内臓のなかを想像するわけです。これを「不浄観」といいます。

 

このような想像をすると、たちどころにして煩悩の炎が収まっていきます。訓練していくと、「ああ、危ないな」と思ったときに、すっとこの定に入ることにより、執着を断てるわけです。現代でもこれは有効だと思います。ただ、お酒などが入ると、とたんにできなくなりますが、素面であれば可能だと思います。

 

昔のように厳格なことは言いませんが、現代には色情地獄に行く方が数多くいるので、そういう方にはこの不浄観が今でも有効であろうと思います。また、現代的に言うならば、エイズなどの問題がありますが、同じことでしょう。

 

ものすごく快楽で、快感でいいことだと思っていたところが、結果はエイズ・ウイルスに汚染されただけであったとしたら、想像するだけでもおぞましいことです。そんなことを知らずに、海外へ行って遊び歩いていたところが、五年後、十年後にエイズが顕在化してきて大変なことになり、「しまった!あのときの快楽というのは、まったくの迷いだったのだ」ということを知ります。

それなども不浄観の材料になるでしょう。エイズになった姿を想像してみるわけです。もちろん、性欲以外にも対象はありますが、よく使われたものの一つが性欲なのです。


「慈悲観」ー怒り多き人が修する観法
「因縁観」ー愚痴多き人が修する観法
「界分別観」ー自我が強く驕り高ぶる人の修する観法
「数息観」ー心がよく乱れる人の修する観法

 

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(私文:いつも避けて通る、情欲を制する修行)
以前の私は毎日、浴びるようにお酒を飲んでいました。朝は毎日二日酔いで仕事に出勤していました。自分を制するということ自体考えたことなどありませんでした。今この年になる、今この環境で、今、幸福の科学の信者として、大川隆法総裁先生のおっしゃるお言葉が胸に刺さります。お酒を止めることなどできないがゆえに、酔えば自分の心が解放されていると思っていました。だから止めることなどできるわけはなく、仏法真理から遠く離れている私でした。

最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございました。
是非とも、大川隆法総裁先生 書籍・沈黙の仏陀 を読んで下さい。