大川隆法総裁先生 書籍・不動心 参照です

 

会社などでは、上司が部下に目をかけ、いつもほめてやっていたところ、あるとき、飼い犬に手をかまれるような出来事が起きることがあります。そして、上司のほうは、「あれだけかわいがってやったのに、おれのことをこのように言うとは許せない」「あんなにほめてやったのに、いまごろになって、あんなことを言っている」などと考えることになります。

 

こうしたことは、世の中にはいくらでもあります。いわゆる恩知らずです。「自分がこれだけ一生懸命に尽くしてやったのに、相手からはお返しが来ない」と言って腹を立てている人が、世の中にはいくらでもいるのです。親子でも同じです。

 

親は「子供を一生懸命に愛した」と思っていても、子供のほうは、やがて巣立っていくと、そのお返しをしなくなります。そのため、親は「子供に捨てられた」という印象を受けることがあります。職人などでも、親方のところへ弟子入りをして、何年か修行した人が、やがて巣立っていき商売敵になることは、よくある話です。

 

また、会社などでも、社長が何年も手塩にかけて教育した人が、会社をやめて独立し、商売敵になることがよくあります。こうしたとき、人間はどうしても、「裏切られた。あいつにしてやられた」という思いを持ちます。そうした感情がなぜ起きるのかといえば、「ギブ・アンド・テイク」という考え方が忍び込んでいることが原因です。

 

「与えたら、与え返してしてくれるものだ」という期待感や、「自分がほめた人は、自分になついてくれるものだ」という考えを、無意識のうちに持っているのです。したがって、与えきりの気持ちを出していくことが必要です。すなわち、「人に好意を与えるときには、見返りを求めない。一方的に与え、しかも、与えたことを忘れてしまう」ということです。

 

「自分が相手に与えたことは忘れずにいて、相手が自分に与えてくれたことは忘れる」というところから、人生の不幸が始まります。「私はこれだけしてやったのに、相手は何もしてくれなかった」という思いが、不幸の出発点なのです。

 

「私はこれだけしてやったのに、愛してやったのに、よくしてやったのに、相手からのお返しがない。私の恩が分かっていない」たいていはこのように考えるものですが、この「してやった」という気持ちのなかには、一種の人格的未熟さがあることに気づかなくてはなりません。

 

あげるときには、 ”ただ” であげることが大切なのです。特に心の問題はそうです。優しさや気遣いなど、人への愛は与えきりであり、一方通行だと思ってください。もし愛が返ってきたならば、「得をした」と思えばよいのです。お返しをもらおうと考えてはいけません。

 

とにかく与えきり、人にしてあげたことはすぐに忘れることです。しかし、人からしてもらったことは、いつまでも覚えていて、感謝をしていくことです。世の中には恩知らずの数は尽きないのです。その恩知らずのなかには、ほかならぬ自分自身も入っていることを忘れてはいけません。

 

「私は自分の力で道を切り開いてきた」と思っても、その途中においては、さまざまな人の恩恵に浴していることも事実でしょう。自分の受けた恩を、両親、先生、友人、会社の上司や同僚などの温かい愛を、忘れているのです。そして、「人は私に何もし

てくれなかった」「あれだけしてあげたのに、飼い犬に手をかまれた」などという発言になってきます。

 

「他人にしてあげたことを覚えている人ほど、自分が他人からしてもらったことを忘れやすい」という現実があるのです。大切なのは、「他人に何かをしてあげるときには、与えきりにして、それを忘れる。逆に、してもらたことは長く覚えておき、感謝していく」ということです。

 

これが基本的な考え方です。こうした考え方を持っていれば、世の中はもっとよくなっていきます。ギブ・アンド・テイク的な考え方の問題点は、「圧倒的善念」というものが不足していることです。

 

「ほめてやったのに、私の悪口を言った」「あれだけ引き立ててやったのに、私をないがしろにした。けしからん」などという気持ちは、まだ善念が足りないのです。「よくしてあげたのだから、当然、向こうもよくしてくれるはずだ」という思い込みがあるのです。

 

それは、自分自身の幸福感が、他人の評価によって左右されるほど小さいということです。相手に善意や幸福を与え返してもらって、初めて満足できる程度の善意や幸福しか持っていないということです。しかし、自分にもっともっと善意があふれ、もっともっと幸福があふれていれば、その幸福感でもって、すべてを押し流していけるはずです。

 

なぜ、無限の善意、無限の幸福が出せないのでしょうか。なぜ、湧き出してくる泉のような無限のエネルギーが出てこないのでしょうか。

 

大自然を見てください。泉からはこんこんと水が湧いてきます。山のなかなど、泉はいろいろなところにありますが、泉がお金を一円でも取ったでしょうか。砂漠にはオアシスがありますが、オアシスは人間に一円でも要求しているでしょうか。

 

ただ無限に水を供給しながら、旅人ののどの渇きを癒しているだけではないでしょうか。あるいは、豚肉や牛肉を買うときには、いくらかの代価を払いますが、牛や豚はどれだけの代価をもらったでしょうか。そうしたことを、人間は考えたことがあるでしょうか。

また、空にかかっている太陽は、「人間から何かお返しが欲しい」と言っているでしょうか。一円でも「欲しい」と言っているでしょうか。電力会社は無料では電力を供給してくれませんが、太陽は無料で熱やエネルギーを与えてくれているのです。

生きている人間に、「太陽のようになれ」と言うことは無理かもしれませんが、自然の中には、そうしたことが数多くあることを知らなくてはなりません。また、そこに仏の心もあるのです。

みなさんは、相手の恩知らずを気にしない方法を、見いだしていかなくてはなりません。その際、「自分のなかにもギブ・アンド・テイクの心があり、相手の評価によって幸せを確かめようとする小さな心、卑怯な心がある」ということを知る必要があります。

泉のごとくあふれ出て、圧倒的善念でもって人を潤していくような、おおらかな気持ちが大事なのです。人の言葉に傷ついたり、「お返しがない」「感謝がない」と思ったりしたときは、圧倒的善念という言葉を思い浮かべてみてください。そして、「自分には与えきりの心がなかったのではないのか」と考えてみることです。

 

お返しがなくて悔しい思いをするぐらいならば、最初から与えないことです。人をほめたり、「人を幸福にしよう」などと思ったりしないことです。そして、自分の殻のなかで生きていけばよいのです。「人を幸福にしよう。人をよくしよう」と思う以上は、与えきりの心でなければいけません。

 

「見返りを求めてはいけない」ということを、大切な心得としていただきたいと思います。

 

不動心・・・・

 

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(私文:私の圧倒的善念は??)
もちろん、私も相手を押し流すような力で、与えきりの気持ちでしようと思っています。しかし、気分次第になっています。調子のよいときには、与えきりで、後は忘れてしまうということが出来るのですが、気分の乗らないとき、体調の悪いときなどは、避けて通ってしまいます。圧倒的善念をする前に、基礎体力の強化が必要な感じです。しかし、おっしゃっていることは分かるので、日々できるように頑張りたいと思います。もしそれが出来つのなら、完全自立することができるかもしれません。

最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございました。
是非とも、大川隆法総裁先生 書籍・不動心 を読んで下さい。