大川隆法総裁先生 書籍・地獄の法 参照です。

 

現代で知ってほしい、魂や「転生輪廻の思想」

 

例えば、原始仏教をそのまま使うとしたら、やはり、「生き物の命を奪う事はいけないこと」ということにもなります。そうすると、釈尊が生きていたときの仏教でも、山で鳥獣を獲る猟師とか、海や川で魚を獲る漁師とかも、いちおう穢れた職業ということになっていて、出家は許されなかったし、信者になることを許されなかったこともあります。

 

ちょっと気の毒な面はあるのですけれども、スタート点においてはそうとう純粋な考え方を持っていたのだろうとは思うのです。いまだにその風習は遺っています。それは仏教だけではないかもしれず、その前のインドのバラモン教からの流れを汲んでいるものだとは思います。

 

西洋のほうでは、「人間にしか魂が宿っていない」と考えているから、動物を殺して食べることに罪悪感がないのです。豚や牛等を殺そうと、鳥を殺そうと、魂はないと思っているから、平気で肉を割いて食べられるのですけれども、東洋系のほうでは、「人間以外の動物にも魂が宿っている」という考え方があるので、ここのところを厳格に考える場合もあります。

 

日本では、ビーフカレーとかが平気で国民食のように食べられて、子供も喜んで食べていますが、インド人を日本に呼んでビーフカレーを食べさせたら、「今のカレーにはビーフが入っていたんだよ」と言われたとたんに、もうアレルギーを起こして、もしかしたらショック死する可能性もあるぐらいです。

 

牛はインドでは「神様のお使い」といわれていますので、牛を殺さないのです。インドでは、道路の真ん中で牛が寝そべっていても車のほうが避けて通るというレベルですので、牛もとても穏やかな天国的な顔をしています。目も優しいのです。

 

「食べられる」と思ったら悲壮な顔になってきますけれども、絶対に食べられないのを知っているから、すごく柔和な感じではあります。ただ、ちょっと近代化を遅らせている面はあると思うのです。「道路のなかで牛が寝ているために動けない」とかそういうことが起きて、ラッシュアワー時などに困ったりすることも、やはりあります。

 

でも、インドを回ってカレーを食べてみると、出てくるのはタンドリーチキンぐらいです。チキンはどうも食べてもいいからしいのだけれども、それ以外のものは食べてはいけないということで、豆と野菜とかそんなもののカレーばかり出てくるので、ちょっと、日本人にはおかしくなってしまう面もあるかと思います。

 

おそらく、その思想には、仏教がオリジナルというわけでもなく、仏教の前からあった思想ではあるのですけれども、たぶん、「転生輪廻の思想」が流れているからだと思うのです。転生輪廻の思想のなかに、「人間でも、生き方がもう人間としては認められないような、畜生というか動物のような生き方をした人は、来世は動物に生まれ変わる」という思想自体はあったのです。

 

こうした転生輪廻の思想自体が仏教のなかに流れ込んでいます。これ自体は否定していないのです。インドに行ったら、川で大きな黒鯛のようなものが泳いでいるのです。「食糧不足ならこれを獲って食べたらいいのに」と思うのですけれども、「いや、”おじいさん” かもしれない。”おばあさんか” もしれないと思うと食べられない」と言うので、このへんも難しいところです。

 

ただ、「動物に魂がない」という西洋の考えは、実は間違っているのです。羊だって魂はあるし、牛にだって魂はあるから間違っているのですが、それは、イエスが説いていないからです。それについて、「魂があるか」は説いていない。

 

しかし、もっと前、イエスより遡ること何百年かのプラトンの思想ーソクラテスが説いたということになっていますけれどもーソクラテス、プラトンの思想を見れば、動物に生まれ変わることがあることを、ちゃんと哲学のなかに書いてあります。幾つかのものに書いてあります。

 

例えば、「この世で勇気を持って生きた人間はライオンに生まれ変わる」とか、「身の潔白を証明したい人は白鳥に生まれ変わる」とかいろいろ書いてあるので、古代の転生輪廻の思想は、同じようなものをちゃんと持っているのです。

 

そうしたことは哲学のレベルでは入っていたのに、イエスの時代に三年間の伝道では説けていないのです。例えば風習として、向こうでは、血で字を書いたりします。印鑑の代わりでしょうか、血で血文字を書いたりするのです。

 

羊の血とかを抜いて、それで字を書いたりもするし、祭りとなったり、あるいは歓迎となったりしたら、羊やヤギを潰したりします。羊とヤギがどう違うかはよく分からないのですけれども、羊は平野で生きているが、ヤギはどうも山場で生きているらしいので、多少の違いはあるのだと思うのですが、それを潰して食べたりとかはするわけです。

 

そういうことがあるので、これは罪ではなかっただろうと思います。もちろん、それを盗んだりすれば財産権の侵害になるから、罪にはなります。このへんの、ちょっと伝統的な風習もあるので真実のところは分かりにくいところもあります。

 

私が、現代、2000年代の立場で霊査してみるかぎり、転生輪廻として「動物に生まれることがあるか」、あるいは「動物が人間に生まれることがあるか」ということを率直に訊かれたら、「ある」と答えざるをえないのです。

 

パーセンテージとして、みんながみんなそうなるというわけではありませんけれども、それが最善と思われる場合はそういう選択肢があるということをやはり認めざるをえないので、実際に「ある」のです。

 

だから、これは知っておいてほしいのです。これはもうだいたい、昔話としてしか思っていない人が多いのです。

 

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(私文:産まれたばかりの記憶)
不思議なのですが、私は、産まれたばかりの記憶が今でも残っています。昭和24年、東京の豊島区で産まれました。駒込の家の天井を憶えているのです。木の木目の部分が、その年輪の模様が残っています。それ以外のことは分からないのですが、不思議な記憶として、今でも残っています。

みなさんにもこのようなことは、必ずあるはずです。出来れば教えてください。

最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございました。
是非とも、大川隆法総裁先生 書籍・地獄の法 を読んで下さい。