大川隆法総裁先生 書籍・大悟の法 参照です。
1 悟りの原点
1981年三月に私が大いなる悟りを得てより、二十年あまりの歳月が過ぎました。最初は、ちょうど山あいの木陰や岩陰にわいた小さな泉のようであったものが、チロチロと流れていくにつれて、しだいに小川になり、普通の川となり、大河となり、大海へと流れていく、そういう光景を、みずから見てきたような思いがあります。
この二十年あまりの歩みは、私自身の悟りの変化、進化と同時に、その悟りを説く者としての環境の変化、組織の変化を伴うものでした。ここで、初心に返り、「悟りとは、いったい何であったのか」ということを確認する作業をしてみましょう。
これまでの歩みを振り返り、「悟りの要素として、これは落とすわけにはいかない」というものを考えてみることは、「世の中のさまざまな宗教のなかで悟りとされているもの、あるいは、仏教の流れのなかで、釈尊(ゴーダマ・シッダールダ)の悟りとされているものと、現実に自分に起きたものとが、同じものなのか。それとも違うものなのか」ということを検証する手立てにもなるのではないかと思います。
霊的な現象が起きるということは、もちろん、万に一つのことではありますが、それが身に及んだという人は、日本にも他の国にもたくさんいるので、それ自体は決して珍しいことではないでしょう。
その霊的覚醒によって、悟りがどのように展開してきたかを見て初めて、そ原点にあったもの、悟りの原点にあったものが、いったいいかなるものであったのか、その悟りの核が正しいものであったかのかどうかということが、理解されるのではないでしょうか。
2 無我の思想
無我の思想に対する誤解
釈尊の思想をさまざまに点検してみると、そのなかで最も有名であると同時に、最も後世の仏教学者たちを迷わせているものに、無我の思想があります。
インドには「アートマン」という言葉がありますが、それは幾つかの意味をもっていて、そのなかに、「霊魂」という意味もあれば、「自我」という意味もあります。そして、釈尊の教えのなかに、このアートマンの反対語である「アナートマン」という教えのあることが記録されています。
これが実は、釈尊の悟りを示すと共に、それを誤解させるものであったと思われます。アートマンという言葉の否定語を使って悟りを表そうとしたところに、その意義があったと同時に、誤解される根源もあったようです。それでは、無我の思想とは、いったい何であったのでしょうか。
この無我の思想が、「人間として自覚しているところの『自分』がない」、あるいは「人間には魂がない」という意味ではないことは、私の実体験からいっても確実なことです。
アナートマンを無霊魂説と解釈する仏教学者もいますが、これは、宗教、あるいは仏教が形骸化し、廃れてきた流れのなかで、彼らが、自分の置かれている立場があまりにも不安定になったために、「何か近代的合理性を備えなければいけないという焦りにとらわれ、カント以降の、霊的なものと哲学的な自覚とを分ける考え方にあやかろうとしたものです。
あるいは、百年あまり前のマルクスの思想に乗っかって、仏教を共産主義思想的に解釈し、それが進歩的であるかのように吹聴して、生き長らえようとしたものなのです。
彼らは、そのように唱道して仏教を現代的にしたつもりであったのかもしれません。あるいは、若いころに、そういう思想の洗礼を受けて、そのような解釈をせざるをえなかったのかもしれません。思想には多面性があるので、どの面を取ってみるかによって、違ったものに見えます。
釈尊の思想も、そのアートマンの思想、無我の思想を取り上げて、それを自己否定や霊魂否定に解釈すれば、唯物論につながるようにも見えなくはありません。また、釈尊の教えのなかから、「諸行は無常である。ガンジスの河が氾濫して、泥でつくった家が流れるように、人間の肉体というものは滅びゆくものである」という教えだけを取り出せば、それもまた、この世的なる、唯物的思想のようにも見えなくはありません。
そのたとえの意味が、「この世の形あるものは、すべて崩れていく」ということだけで終わっているとすれば、唯物論とまったく同じようにとらえることもできると思います。しかし、そのような解釈は、釈尊の悟りが、その思想を解釈する者の体験や知的理解力の及ばないところにあったために生まれたものなのです。
霊的存在は百パーセントある
宗教は世界各地にあります。しかも、交通手段も連絡手段もあまり発達していなかった時代から、別々の国に、同じような根拠をもった宗教が数多く存在しています。そして、「それぞれの宗教において、仏や神に相当する偉大な光の存在があり、また、死後の生命や生まれ変わりの思想が数多く見られます。
これを見ても分かるように、「霊的存在が、この世を離れた世界に住んでいる。さらに、導きの偉大な光の存在がある」という世界観は、宗教そのものをすべて否定しないかぎり、永遠に生きつづける真理なのです。私が、1981年に悟った内容のなかで、「どうしても、これだけは外せない」と思うことは、やはり、「霊的存在は百パーセントある」という感覚です。
もちろん、私はそれ以前にも、霊的なものは信じていましたし、「人間には転生輪廻があるだろう。また、仏や神なるものは存在するだろう」と思っていました。しかし、それを、感覚的なるものとしてつかんだということ、思想的なるものから離れて、現実のものとしてつかんだということは、非常に大きな衝撃でした。
この点から二重写しにして見るかぎり、二千五百年あまり前の、釈尊の「菩提樹下の悟り」においても、霊的覚醒を抜きにしてその悟りが成り立つはずはないのです。何十日もの反省的瞑想のなかで、ゴーダマ・シッダールダ(釈尊)は、自分の殻を取り去り、真実の自己をみつめると共に、霊的世界を確実なるものとして垣間見たのです。
それも、偶然性によるのではなく、自己の主体的な考え方や判断によって、霊的世界を確認し、その世界に入っていけるようになったのです。この実体験が、きわめて強い確信を生んだはずです。
心は大宇宙につながっている 自他一体の悟り 偉大なる大我
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(私文:リズム・波動)
私は中学・高校と、ドラムを叩いていました。リズムの頭打ち、後打ち、三拍子、八拍子と、リズムを取っていました。音楽を聴きながらもリズムを取っていますし、会話のなかでもリズムがあるような気がします。遅いリズム、早いリズム、アクセントをどこで入れるかとか、なかなかメリハリが付いて良いものです。また、急に音のない時間も大事にしています。瞑想なんかをするときはリズムに縛られることがない、自由な感じが好きです。