大川隆法総裁先生 書籍・地獄の法 参照です。
そうした信仰心を持って生きていくことを、大きな意味において「正しき心の探究」といいます。そして、その「正しき心の探究」の中身とは何であるかといえば、「愛・知・反省・発展」という「現代の四正道」に、今は集約されています。
・愛ー「奪う愛」から「与える愛」へのパラダイムシフトを
まず「愛」の教えですが、この考え方がほとんどの場合、誤解されています。「愛とは他人から奪うもの、もらうもの」とばかり考えている人が増えています。この考え方は共産主義のなかにも蔓延しております。共産主義の場合は、経済的な意味が多く、「持てる者から収奪して、持てない者がそれを奪う」というかたちですけれども、考え方に誤りがあると思います。
人がこの世に生まれるのは、やはり、その人の努力や実績というものを通して魂的に向上させることが目的ですから、いわゆる「働かずして、人が汗水たらして手に入れたものを奪い取る」「システム的に奪い取る」ということはよいことではありませんし、本人たちを堕落させることにもなりかねません。
もう一つは、自由主義社会といわれるなかにある「社会福祉主義」です。これらも、一定の人類の知恵として、福祉思想があること自体まで否定しているわけではありませんが、結果的には共産主義の代わりになって不平不満を吸収するためだけに、そういうふうになっていることもあります。
ですから、これは、神仏の力を使わずしても、この世において、国家が財政破綻し、国が崩壊していくきっかけにもなっていると思います。この日本という国においても、国民が納める税金の二倍の金を政府が使い続けているという状態です。これが何を意味するかということですが、「いずれかの時点で国家が破綻する」ということを意味しています。
これは、アメリカにおいてもEUの大部分の国においてもそうだし、アジアやアフリカの貧しい国においてもすでに起きていることです。結論は、「足ることを知る」ということで、自分の働きに見合った生活をすることを考えていかねばならないということです。
愛を、「奪う愛」から、「与える愛」へとパラダイムシフトしていくことが大事であるということだし、この「与える愛」こそ、神仏が人類を生かしめてきた力なのだということです。あの太陽の光のように、あまねく光を降り注ぐ、その翼を担うということが、人類の行ずべき「愛」という言葉の意味になります。
・知ー霊的な真実に裏打ちされた「仏法真理」を学ばなければ魂の向上にならない
それから、「愛・知・反省・発展」の「知」は何かということですけれども、これは「仏法真理」のことであって、本当の世界観や霊的な真実、神仏の教え、こういうものに裏打ちされた知識でなければ、この世で学んでも魂の向上にはならないということです。
だから、「神は死んだ」とか、「唯物論がすべてだ」とか、「この世の利便性だけが、もう最高のものだ。幸福なのだ」というふうにだけ考えていくならば、間違っていると言わざるを得ないし、「自分がどこから来て、どこへ行くかさえも知らない人類」というのは、ちょうど、「駅のホームに立って、自分が何のために駅のホームに立っているのかを知らない人間」と同じです。
それは、次に来る列車を待っていて、それに乗ってどこかに行こうとしていることであり、「どこから来て、どこへ行くかを知らない」ということは、「自分自身を見失っている」ということと同じなのです。
・反省ー犯した罪や思い、行いを振り返り、心を磨く
さらには、「反省」という言葉を述べております。人は地獄に堕ちることがあります。仏法真理に反した生き方をしたときに、地獄に堕ちます。ただ、そのときに、いたずらに反逆心を起こして、神への反抗に加担するだけであってはならないということです。
自分自身が、自分自身の犯した罪や思い、行いを振り返り、反省することによって、心を磨いて天上界に還っていくという機能を与えられているのです。だから、その力を、もう一度、取り戻してほしいと思います。それを、生きていくうちの学習の中心軸に置いてほしいと思っています。
・発展ー徳を積んだ者が多くの人たちを導いていけるユートピアづくりを
そして、最後に「発展」という言葉が来ますけれども、この発展のなかには「ユートピアづくり」ということも入っています。ユートピアづくりは、いろいろな思想のなかで述べられていることではありますけれども、「ユートピアなのか、ディストピアなのか」ということを峻別できないようでは駄目です。
ジョージ・オーウェルの『1984年』や『動物農場』に書かれているような、そういう社会をユートピアと考えてはなりません。この地上において修行し、徳を積んだ者が、多くの人たちを導いていけるような、そういう国や社会を目指していかねばなりません。
いやしくも、人の上に立つ者が、嘘偽りを駆使し、そして、お金や地位や名誉を利用して、人々を煽動する力でもって権力をつくっているということは許しがたいことだとし、陰謀によって世の中を自由に動かすというも問題外だし、ましてや、マスコミを使って誤った情報のほうに人々を誘導して、全員を海のなかに突き落とすようなことがあってはならないと思います。
本来のユートピア社会は、霊天上界とも調和できるものでなければなりません。マスコミの原理が、「疑い」「疑」ということを中心に発展しすぎていることに対して、たいへん悲しみを感じております。
また、この世における知識の獲得を一つの身分制として、現代、民主主義社会のなかにおける身分制度社会として、知の獲得をもってそれに代替していることが流行ってきておりますけれども、その「知識を得る」ということは、「智慧を得る」ということと必ずしも同じことではありません。
知識のなかにおいて、ダイヤモンドの光を宿しているものを選び出すこと、そして、そうした本物の知識に、「人生修行」という名の経験を通すことによって智慧をつくり出していくことーこれが大事なことです。
これなくして、単なる点数とか偏差値とかいうようなもので、学歴主義で人々を統治階級に上げるか上げないかを決めて、その偏差値でもって、生まれつきの貴族のごとく、人々を見下したり、支配したり、命令したりする根拠とすることは、残念ながら、「天上界的なものではない」と言わざるをえません。それは一つの迷妄だというふうに考えられます。
ーーーーー〇ーーーーーーー〇ーーーーー〇ーーーーーーーーー〇ーーー
(私文:人生の真実とは)
私は長い間、「本当のこと、間違いない真実」を探してきたと思います。それに気が付いたのは、中学時代だったと思います。遠藤周作の「沈黙」を読んで、あの隠れキリシタンの前にマリヤ様の絵を置き、踏めたら解放、どうしても踏めなかったら、死刑になった歴史を思うと、神様が本当にいるなら、どうして何にもしてくれないんだ、こんなにキリストを信じている人が殺されているのに、牧師まで殺されているのに、なぜ、神様は「沈黙」をしているのか。どうして、どうしてと考えてしまった事がありました。後日、大川隆法総裁先生に出会い、三十年以上、仏法真理を学び続けています。少し分かった点と点が少しづつ繋がってきています。これからももっともっと、「正しき心の探究」をしていくつもりです。
最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございました。