大川隆法総裁先生 書籍・太陽の法 参照です。
自らを知るためには、自らをすてるということです。ほんものの自分を知るためには、にせものの自分をすてなくてはなりません。つまり、「にせものの自分に気づくことが、にせものの自分をすてる第一歩となります。そこで、まず、にせものの自分というものを列挙してみようと思います。
他人から愛を奪い取る自分
まず、にせものの自分の筆頭とは、他人から愛をもぎ取ることばかりを考えている自分です。根本仏は、宇宙を与えられたのです。人間の魂も、人間の肉体も、仏から、与えられたのです。仏は、太陽も、空気も、水も、そして、大地も、海も、動物も、植物も、鉱物も、いっさいがっさいを与えきりました。しかし、仏は、なんの報酬も求めてはいないのです。
このように、「与えきり」の世界のなかに生きておりながら、人間は、なにゆえに奪うことばかりを考えるのでしょうか。仏に、これだけの愛を与えられておりながら、一体これ以上、どれほどの愛を与えられたら満足するというのでしょうか。
仏の愛を知らない人だけが、他人の愛を奪い取るのです。しかし、奪い取りたい他人の愛というものとは、一体何なのでしょうか。それはこの世的過ぎる評価でしょう。この世的価値判断に一体何の意味があるのでしょうか。三次元的、唯物論的な評価をしてもらたところで、一体それが、なんの役に立つというのでしょうか。
一体どれだけ、自分の向上に役立つというのですか。そのような自己愛の心は、他人と自分をへだてる壁となり、やがては、地球全体に、動物園のような金網の柵をはりめぐらすことになるのです。そういうことが、なぜわからないのでしょうか。
すなわち、まちがった執着をもっているからです。だから、わからない。執着の心をもっていたのでは、ほんとうのしあわせというものを得ることはできないのです。
仏を信じない自分
もっともあわれむべきなのは、仏を信じていない人たちです。仏がつくられた世界を信じていない人たちです。人間とは、偶然に男女の性的結合の結果生まれて、バラバラの個人として生きているのだと思っている人たちです。
ここに、もっともあわれむべきにせものの自分があるのです。「仏の救済などは信じられない、信じろというならば、きちんと証拠を出して見ろ」というような方は、すでに仏というものを裁いているのです。仏を裁けるほど、自分が偉いと思いあがっているのです。
しかし、人間では、地球の誕生以前から人類を見守っている仏の存在を証明することなどできません。その証拠がほしければ、死んであの世に還ったあと、証拠を見せられるでしょう。ただし、そのときには、すでにほとんどが手おくれなのです。
そして、真っ黒な世界で、自分の存在すら証明できなくなるほどの困惑に陥ってしまうでしょう。
精進をしない自分
にせものの自分の三番目とは、精進しない自分です。精進をしない自分とは、第一に、怠け心ある自分であり、第二に、仏法真理を学ぼうとしない自分であり、第三に、他人を公平に見ない自分であり、第四に、素直でない自分です。仏は、人間に、永遠の努力を期待しています。
ですから、努力しない人間は、仏の子とはいえません。あなたは、日々、努力していますか。日々、仏法真理の勉強を深めていますか。他人の実力、他人の真価を、しっかり評価してあげていますか。
そしてまた、素直に生きていますか。素直でない人間には、向上などありません。素直でない人間は、真の魂学習などできません。素直であるということは、それ自体が美徳であり、それ自体が仏の御心にかなっているのです。ですから、理屈ばかりをいって、他人のいう言葉に耳を傾けないのは、素直でない証拠です。
執着だらけの自分
いつわりの自分とは、すなわち、執着だらけの自分ということです。真実の自分を知るとは、日々、仏の心を心として生きるということです。そして、仏の心を心として生きるとは、この世が修行のための仮の世であり、すべてをすてて、やがてあの世へ還らなければならないことを知って、日々、生きるということです。
たとえこの世にいくらしがみついたところで、やがては、必ずあの世へと旅立ってゆかねばならないということなのです。人生は、無常なものであり、一日一生の思いで生きなければ、いつなんどき、死に見舞われるかもしれないのです。
天国にいる人で、地上に執着をもっている人などひとりもおりません。しかし、地獄にいる人はすべて、地上に執着をもっている。その事実をいっときも忘れないことです。
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(私文:渡り蟹のスープ)
昨日の晩飯に、渡り蟹のスープを作りました。スーパーの鮮魚に勤めているので、昨日の渡り蟹は398円で売っていたので、一匹買ってきて、奥さんと半分ずつスープに入れて食べました。身がしっかりと入っていて、本当に美味しかったです。スーパーの価格は、東京のスーパーに比べると、半分ぐらいの値段でゲットできると思います。だんだん東京出身の私が、九州人になれてきたのかなと感じました。
最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございました。