大川隆法総裁先生 書籍・永遠の生命の世界 参照です。

 

なぜ宗教という分野の仕事があるか                                                 

 

宗教にとって非常に大事なテーマである死の問題について、お話したいと思います。なぜ宗教という分野の仕事があるかというと、突き詰めて言えば、結局、「宗教家、あるいは宗教を担う人たちは、やはり死の専門家世でなければいけない」ということだと思うのです。

 

いまは、病院で死ぬ人も多くなって、死の問題が、やや医者の仕事のようになりつつもあるのですが、根本的に、医学において限界があることは明らかです。「身体の問題しか扱っていない」というところが医学の限界であり、そういう意味においては、医学に、人間の死のほんとうの意味や死後の世界を取り扱う能力はないと思われます。

 

その意味で、やはり、宗教の使命というものは、いまも大きなものがあると思います。「人間の死は、どのようなものであるか」という医学的な判定基準等は、いろいろと揺れていますが、霊界の真実を知ると、医者は、非常に些細な、細かい、つまらない議論をしているかのようにも見えます。ほんとうにいちばん大事なところが議論されていないというか、分っていないという感じがするのです。

 

「生老病死」は宗教の根本問題

 

「生老病死」は仏教の基本的で大きなテーマです。釈尊の出家の理由の一つにも挙げられています。「『人間は、なぜ生まれてくるのか。なぜ老いるのか。なぜ病気になるのか。なぜ死ぬのか』、この問いに、もしスパッと答えてくれる人がいるならば、自分は出家を思いとどまり、王宮に残って、父王の跡を継いでもかまわない。しかし、誰も答えてくれない」ということです。

 

この生老病死の問題は、哲学の根本問題でもあるでしょう。宗教でも哲学でもあるでしょう。ただ、死後の世界まで含めると、明らかに宗教の問題になります。「人間は、なぜ生まれるのか。なぜ、この世に生まれてくるのか」ということについて、現代的常識においては、答えがなされているとは言えません。

 

死の定義に関して、「心臓が止まったときである」「脳波が止まったときである」など、いろいろと医学的に取り扱われているように、生の瞬間に関しても、「いつから始まるのか」ということについて議論があるでしょう。

 

生物的に、精子と卵子の出会ったときから始まるのか、あるいは、母の胎内で人間としての姿の原型ができたときに始まるのか。いったい、どこから始まるのか。生命の起源そのものが曖昧模糊としています。最近は、ロボットも、かなり進化してきたので、身体的機能だけをテーマにすると、生命とロボットのあいだに、もう一つ区別がつかないところがあります。

 

人間や動物の姿、特性を備えたロボットも出てきているので、もう一つ区別がつかなくなってきつつあるかもしれません。この「生」の問題、「生まれてくる」という問題があります。

 

それから、「老」の問題、「老いる」という問題があります。これは、現象としては誰しも認識はしていますが、「人間は、なぜ必ず老いるのか」ということです。「老いること、老いて死ぬことを妨げたい」という、不老不死、長寿の願いを持った人は、秦の始皇帝、その他、昔からたくさんいるのですが、どの人の願いも叶えられることはありませんでした。

 

「年を取らない」ということはありえないし、「死なない」ということもまた、ありえないのです。「病」の問題、「病気になる」という問題もあります。病気は、かなり克服されつつあって、人間の寿命は昔より少し延びています。しかし、いろいろな研究がなされた結果、病気の種類も増えて、昔は病気と思わなかったものも、今では病気とされたりしています。

 

そのように、病気そのものがなくなることはないのです。身体のほうに注目すれば、病気は身体の故障ということでしょう。故障しない機械やロボットがないように、肉体そのものも、故障しないで永久に使えるというものではなのです。

 

現代の科学は生命が理解できていない 

 

この「生老病死」という根本問題に、現代の学問が、はたして、どこまで答えることが出来たでしょうか。特に、生れてくるところと死んでからのちのことについて、明確に答えきっているものは、現代の学問水準、科学水準においては、やはり、ないと言わざるをえません。いくら研究をして、クローンとか複製とかをつくっても、それで、ほんとうに生命が理解できたかというと、やはり疑問があります。

 

宗教は、「誰もが、生きているあいだに検証できる。実験で確かめられる」というものではなく、「ごく少数の人が真理を伝えて、『信じるかどうか』という踏み絵を迫ってくる」というものです。そのため、現代的には、どうも多数決の原理で承認しにくいし、また、科学的実証という意味での承認も非常にしづらいものです。

 

しかし、それでも、やはり、言うべきことは言いつづけなければいけないと思うのです。現代では、医学、生物学が進歩してきて、いろいろと研究がなされ、複製をつくれるようになってきています。

 

さらに、最近の流行りの本によると、昔から、宗教で、「魂があって、人間は生まれ変わってくる」という感じで見ていたものを、もっと違うように捉えている向きもあるのです。生物学者は、研究して、「結局、何か魂の本質のようなものが、つかめた気がする」と言っています。

 

どういうことかというと、「人間は、肉体があり、『赤ちゃんとして生まれ、大きくなり、衰えて、死んでいく。しかし、また、子供ができ、孫ができていく』というかたちで、個体として、つながっているように思われているけれども、ほんとうは、そうではないのだ。ほんとうは、魂の本質に当たるようなものは遺伝子なのだ」という意見も出ているわけです。

 

「利己的な遺伝子」という説(リチャード・ドーキンス)があり、「遺伝子そのものが、自分が生き延びるために、子々孫々、体をつくりつづけ、何度も何度も再生して、百年も二百年も生きつづけようとしているのだ。生き延びるているのは、実は遺伝子なのだ」という意見もでているのです。

 

最近の生物学や医学の唯物的な探求の仕方でいくと、やはり、そのようになるかもしれません。「人間は、両親から遺伝子を半分ずつもらって、新しい遺伝子ができる。しかし、そのなかには、確実に、もとの遺伝子の一部が生き延びている。さらに、その子供もまた、両親から遺伝子を得て生まれる。

 

遺伝子が永遠に生きつづけるために、生殖があり、『親から子へ、子から孫へ』という流れができている」という、唯物的なものの見方です。そういうものを研究対象として研究をしている人にとっては、それ以外に考えられないのでしょうが、少し残念なところはあると思います。

 

体は、いくら調べても、やはり、道具にしかすぎないわけです。したがって、その本来の意味、使命というものを、体そのものの分析から見るのは、ちょっと難しいものがあるのです。

 

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(私文・歳を取ると、中々怒れなくなる)
経験があるということは、過去のいろんな出来事、事件に出会っているということです。一緒の職場で若い人たちと働いていると、いろいろなことが分かることがあります。しかし、すでに時代が違って来ていて、自分の常識が全然通じないこともあります。そんな、自分では分かっていることと、時代が変わって分からなくなって来たこと、そして、体が思うように動かなくなってきていることの狭間にいて、だんだん、自信が無くなってきて、寡黙になることも多いです。何を言われても、聞こえないふりをしてみたり、分からないふりをすることも多くなってきます。中々難しいですよね。少しでも理解できるように、話を聞いていますが、限界はいつも感じています。逆に、私自身も、お父さんや、おじいちゃんに同じことをしてきたのかもしれません。繰り返しですよね。

 

最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございました。