私は今、九州に住んでいて、スーパーの鮮魚で働いていますが、長い間、寿司の板前として、働いてきました。私の好きなことは、寿司自体にはあまり関係のない、”包丁研ぎ”です。小さいときから、”刀”が大好きで、小田原にいたときは、はがねを焼いて、焼き入れをして作っていました。最近はもう目の視力が落ちてきて、適当に毎日使う包丁だけを研いできましたが、メガネと懐中電灯を使えば、刃先がよく見えて、研ぎ具合が良く分かるようになりました。そして、ついに今日、何か最高の包丁研ぎが出来たと思っています。平凡な毎日のなかに、新たな発見があるということは、とても、嬉しいですね。

 

大川隆法総裁先生 書籍・地獄の方程式 参照です。

 

霊的な世界には地獄があるということを述べました。地獄については、昔話などで聞いていたにせよ、実際に地獄に直面した人の衝撃は大きなものだと思います。

 

話に聞いていたとおり、さまざまな地獄があって、鬼のような存在もいれば、悪魔のような存在もいるー。そうしたことを実際に目の当たりにして、人々は驚くはずです。

 

なかには、身長が三、四メートルと大きい、鬼のような霊人もいれば、刃物を持って追いかけてくる者もいます。色情地獄においては、血の池のなかで人間がのたうち回っています。

 

また、餓鬼地獄においては、昔の飢饉のときに死んでいった農民たちのような、骨と皮ばかりの姿で、「食べ物が食べたい、食べたい」と言って苦しんでいる人たちがたくさんいます。それから、畜生道という所が現実にあります。そこでは人間はもはや人間の姿はしていないのです。

 

芥川龍之介という作家が畜生道に堕ちた人の話を小説に書いていましたが、その小説と同じように、体が馬で顔が人間、体が牛で顔が人間、体が豚で顔が人間ーこうしたものが現実に存在するのです。また、大蛇となって地獄の地面を這っているものもいます。

 

こうしたものたちは、なぜ自分がこのような姿になったのかということが分からずにいます。それは彼らが霊の本質を知らないからです。霊の世界は、思ったことが実現する世界なのです。

 

彼らは生前、「心のなかで思った事は、心の世界においてすでに実現している」ということを知らず、そのため、「心のなかは外からは見えないから、どのような思いを持っていても構わない」と思って生きていたのです。

 

肉体を持っていたとき、その心が透き通しで、何もかも見通されてしまったならば、恥ずかしくて、とても人前には出られないような生き方をしていた人たちは、あの世の世界、霊の世界に還ると、心のなかをすべて見られてしまい、また、霊界では自分の思ったとおりの姿になるということを知って、愕然とするのです。

 

地上にいるときに、人に対する妬みや恨みを持って生きていると体が蛇に変ったりするならば、人間はすぐに自分の間違いに気がつくでしょう。ところが、三次元の法則のなかで生きていると、そうしたことがないために、生前は自分の間違いを知らないでいるのです。

 

しかし、あの世では、思ったことはすぐ実現します。例えば、異性のことばかりに心を悩ませている人は、色情地獄に堕ち、異性ばかりを追い求めます。

 

また、狐のように、人を騙すことばかりに汲々している人は、あの世では狐のような姿となります。蛇のように、しつこくしつこく人を妬み、恨んでいる人は、やはり蛇のような姿になります。

 

これ以外にも、さまざまな動物の姿になっていきます。そして、動物霊のようになった人間が、地獄の苦しさから逃れるために、一時期、地獄から這い出そうとして、地上の人間に憑依するのです。

 

異性に狂った人に取り憑く霊とは

 

憑依といっても、まったく何の関係もない人に憑依できるわけではありません。自分の心のなかに地獄をつくっている人にだけ憑依できるのです。生きている人間は心のなかにさまざまな想念の世界をつくっていますが、心のなかに地獄をつくっている人には地獄霊が入れるのです。

 

心のなかに色情地獄をつくっている人のところには、動物のような霊がかかってきます。また、心のなかに無間地獄をつくっている人、すなわち、心が思想的、宗教的に病んでおり、人々を間違って指導している人のところには、無間地獄に堕ちた宗教家や思想家たちが取り憑いてきます。

 

結局、地獄というのは、心の世界のなか、想念のなかにあるわけです。地獄霊が憑依するのは、生きている人間の心のなかに地獄界があるからです。そのなかには地獄霊が入り込んでくるのです。

 

こうした不思議な世界の仕組みについても、みなさんは知っておかなくてはなりません。

 

最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございました。