大川隆法総裁先生 書籍・永遠の法より参照です。

 

あの世の世界

 

人間にとって、「自分がどこから来て、どこへ去っていくのか」ということは重大問題であり、これが心の底から離れることはないでしょう。しかし、人間がどこから来て、どこへ去っていくかという問題に、明快に答えきったことがある人は少ないと思われます。

 

なぜなら、この問題は、あの世とこの世の関係を解明せずしては、答えが出ないものだからです。しかも、残念ながら、現在、地上にある学問には、あの世とこの世について明快に説明するだけの学問的蓄積もなければ、確率された方法論もありません。

かすかながらも、あの世とこの世を解明する手立てとして、時代時代に現れる霊能者の活躍があります。といっても、霊能者にもさまざまな人がいます。そのなかには、ほんとうに信頼できる人もいますが、たいていの場合は、人格的に未熟な人、人格的におかしい人です。

 

そのため、世の人びとは霊能者の言葉を一様には信ずることができません。霊能者といわれる人が「○○の霊が見えた」「あなたは一年後にこうなる」などと言ったとしても、それを実証するものは何もありません。そのため不安感が残り、なかなかそれを信じることができないのです。すなわち、あの世とこの世を解明するにあたっての不確かさというのは、追体験できないというところに原因があるのです。

 

もし誰かが霊能者と同じような体験を重ねることができるならば、あの世があることを、すべての人が認めるでしょう。しかし、実際には、特殊な人にしか追体験を許されないことになっています。それゆえ、普通の人にはあの世の存在が分かりません。そこで、世の常識のある人々は、あの世の存在や、あの世とこの世のかかわりというものを、認めたがらないわけです。

 

人間は人生観や人生の目的を常に考える存在ではありますが、それは一大問題であるため、「大宇宙の中において、自分はどのような存在なのか」ということを明確につかむまでは、人生観や人生の目的を確立しえないのです。

もし、唯物論者の言うがごとく、母親のお腹のなかに生命がいきなり発生して、六十年、七十年を生き、やがて火葬場で焼かれると、人生がそれで終わりになってしまうならば、それなりの考えを持って生きていかねばならないでしょう。

 

ところが、宗教家たちの言うように、「あの世、実在界という世界があり、魂はあの世からこの世に生まれ変わってきて、何十年かの人生を生きる。そして、この地上を卒業したあとも、実在界において、さらなる魂の向上を目指している」というのが真実ばらば、とるべき考え方は違ってきます。

 

人生を学校教育にたとえた場合、いくつかの見方があると思いますが、唯物論の考え方は、「小学校の六年生がすめば義務教育は終わった」というような考え方でしょう。それは、人生を小学校の中に閉じ込めているのです。しかし、「霊界という世界があり、人間は永遠の生命を持って転生輪廻している」という考え方は、「小学校を出ても、中学校があり、高校があり、大学があり、大学院があり、そして社会にでてからもさまざまな学びがある」というように、連綿と続く学習の場として人生を考えることになります。

 

こうした二つの定点から人生を見た場合、どちらが人間の進化や向上に役立つかといえば、結論は明らかでしょう。永遠の進化を目指すという観点に立ったときに、人間ははるかに向上していくということです。人生は一回かぎりであり、人間は、わずかな期間だけしか生きていない、線香花火のような存在だとするならば、人生には重大な意義も目的も見いだせないのではないでしょうか。

 

その短い期間を線香花火のように燃え尽きるために、人間はさまざまな快楽に耽り、物質欲におぼれ、胞子な生活をしてしまうのではないでしょうか。また、誰もが個人主義に陥っていくのではないでしょうか。わずか数十年の人生であるならば、「自分が楽しまなければ損だ」という考えになってしまっても、おかしくはないかもしれません。しかし、永遠の人生であれば、「人のために奉仕したことが、やがては必ず自分自身の魂の糧となって戻ってくる」と考えられるのではないでしょうか。

 

したがって、人生観、あるいは人生の目的と使命を考える際に、あの世とこの世という観点を理解しておくのは非常に大切なことです。これを外しては、人生や人間を、本当の意味で知ることはできないのです。

 

死後の世界

 

この世を去った人たちが赴くところ、人間が肉体を去ったあとに行くところを、あの世とするならば、あの世とはいかなる世界なのでしょうか。地上を去った人たちを、どのような世界が待ち構えているのでしょうか。それが分からないために、地上の人びとは不安や恐れを抱き、「死にたくない」という言葉に、地上への執着を表しているのです。

 

実際、百人に訊けば、九十九人までが「死にたくない」と言うでしょう。こうした言葉が発せられるのは、「この地上が住みやすいから」という理由だけではありません。あの世の世界、死後の世界に対する不安感や恐怖感が大きいからこそ、「死にたくない」という気持ちがあるのです。

 

しかし、まれには、この世があまりにも住みにくいがために、あまりにも苦しい世界であるがために、死に対する不安感や恐怖感を通り越して、みずからの生命を絶ち、あの世へ旅立とうとする人もいます。

いずれの考えをとるにしても、あの世の世界、死後の世界に対する無知が、その基礎にあると私は考えます。死後の世界に関することは、まだ学問として確立していないがために、人びとは困ることになるのです。私は、それをできるだけ明確にして、水先案

 

内人としての使命を果たす必要があると考えています。

海図なき航海は不安なものです。しかし、明確な海図があれば、航海はそれほど不安なものとはなりません。そして、「みずからがどこから来てどこへいくのか。どの大陸を目指して進んでいく船なのか」ということを知れば、つまり、海図を理解していれば、確かな旅ができるはずだと思います。

 

では、実際に肉体を去ったとき、人間はどのようになるのでしょうか。これについて話をしましょう。私はさまざまな著書において、「人生というものは、わずか数十年の、肉体としての人生だけでなく、この世とあの世を貫くものだ」ということを語ってきました。ところが、実際に死と直面すると、人間は死ぬことに対して抵抗するものです。

病人は病人で、「死にたくない」と言い、医者は医者で、なんとかして病人の生命を延ばそうと努力をします。しかし、あの世の世界から見ると、死期の近づいた人のそばには、本人の守護霊や指導霊、あるいは天使たちがすでに来ています。つまり、指導霊たちは、死期の近づいた人を導くための準備を始めているのです。

 

そして、地上の生命が息絶えたときには、霊体というものが肉体から抜け出すのです。しかし、最初は自分自身にその自覚がなくて、「自分が二人いる」と感じてしまいます。横たわっている自分と、自由自在に動いている自分がいる。自由自在の自分が人に語りかけても、返事は戻ってこない。そして、壁でも物体でも通り抜けてしまうーー。

 

そのことに、最初は非常な驚愕を覚えるのです。また、「横たわっている肉体が自分だ」と思い、ずっと肉体に寄り添っていた魂は、肉体が火葬場に運ばれ、そこで焼かれることによって、非常な衝撃を受けることになります。そして、どうしたらいいのか分からず、火葬場の周りを浮遊しながら、「今後、どのような生活が待っているのか」と、まだ誰からも聞いていない生活に対して、非常に不安を感じます。

 

こうしたときに、まず本人の守護霊が現れて説得を始めるのです。とはいえ、地上に数十年生きていたときに、死後の世界の存在について、なかなか納得がいかなかった人は、守護霊に説得されたからといって、そう簡単には納得しません。そのため、数十日間、地上で説得が行なわれることになります。

 

初七日や四十九日という言葉がありますが、通常、二十日間から三十日間は、死後も地上に留まっていることが許されています。その間に、普通の人は守護霊や指導霊の説得を受け、天上界へと還っていくことになっています。

 

ただ、執着、つまり地上的な何かに対する思いのあまりに強い人、たとえば、子供、父、母、妻、夫、あるいは、土地、建物、財産、会社、事業など、こうしたものに非常に強い執着を持っている人は、地上を去りがたくて、いわゆる地縛霊となり、地上に留まって徘徊することになります。

これが世にいう幽霊です。これはまだ霊として目覚めていない存在だと言うことができます。

 

最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございました。②に続きます。