大川隆法総裁先生 書籍・伝道論 参照です。
人間の原点
夏雲の鮮やかな時節になると、澄み切った青い空にぽっかりと浮かんだ雲や、むくむくと出来ていく入道雲の姿が目に映ります。 こうした大自然のなかで、みなさんはときおり人間の原点を振り返らなくてはならないのです。
夏雲を見ていて人間の転生輪廻を思い浮かべるのは、私ひとりではないでしょう。入道雲は夕方になると雨を降らし、大粒の雨滴が地面を打ちます。雨水は土のなかに深くしみ込み、小さな谷のなかに流れ込んで、いつしか大きな河となり、海に流れ込みます。
そして、真夏の太陽の日差しを受けた海面から水蒸気が上空へと飛翔し、小さな雲のかたまりが出来たかと思えば、それは見る見るうちに大きな入道雲となります。水はほんとうに無心であり、何にとらわれることもなく、無我のままに、その使命を遂行しているのだと思います。
仏教に「諸法無我」という言葉があります。「大宇宙に満ち満ちているエネルギーは、仏のエネルギーである。たとえ、目にはどのような姿に映ろうとも、どのようなかたちとして現れていようとも、それらはすべて、唯一の仏のエネルギーが変化し、流転していく姿である。そこには何のとらわれもない。仏のエネルギー、仏の光そのものが、さまざまな姿をとって現れ、変転していくーそこには、何の引っ掛かりもない偉大なる調和の姿が具現されている」 このように理解される言葉が諸法無我です。
また、仏教には「諸行無常」という言葉もあります。これは「本来、変転しないものはない。すべてのものは移ろいゆく」という原理を説いたものです。諸法無我の教えが、主としてエネルギーの観点から「すべてのものは仏のエネルギーによって成り立っており、何の引っ掛かりもなく流れていくのだ」という考え方を中心としているとすれば、諸行無常は、「移ろいゆくものに心を奪われてはならない。それは実相ではないのだ」ということを説いた教えだとも言えるでしょう。
人間の生命そのものも、こうした仏教の本質的な教えに従って存在しているのです。現代に生きるみなさんであっても、そうした考え方から逃れて、自分流の生き方ができるわけではありません。みなさんは、水滴が天地のあいだを自由自在に巡り、なんら滞ることなく、引っ掛かることなく、己の使命を果たしている姿を見て、「みずからも、あのようなものである」ということを知らねばなりません。それが人間としての原点でもあるのです。
足ることを知る
前節では、「一粒の水滴が、とらわれることなく、私心なく、偉大なる仕事をなしている」ということを述べました。水は温度や位置に従ってごく自然に姿を変え、人びとの喉を潤し、動植物を潤し、大いなる仕事をなしています。しかも、なんら、てらうことなく、得意げになることなく、みずからの仕事を淡々となしているように思えます。
水そのものには意志というものがありません。「「自分で自分のあり方を決めよう。自分流の自己実現をしよう」などという心は、水にはありません。そうした気持ちがなくても、水はごく自然に、自分たちがなさねばならないことをするのです。大地が乾き、作物が水を欲しているときには、水は雲となり雨を降らせます。また、河を流れては人びとの飲料水となり、海に流れ込んでは多くの魚を養います。
そして、その使命を終えて天に昇ると、雨となってまた地を湿らせます。水はこうした仕事をくり返しています。何と自由自在な、それでいて自我のない、とらわれのない姿でしょうか。「自然法爾」という言葉があります。「自然のままで、ひとりでに法そのものの姿になる」という意味ですが、これはとてもありがたいことなのです。
大自然のなかに水という手本があるのに、人間は愚かなことに、自分を過信し、自我を伸ばし、わがままなことをして生きています。そして、心がしだいに汚れていきます。水は濁ることもありますが、濁ったままでありつづけることはありません。
河が泥で濁っても、その水はやがて澄んでいきます。また、水にどのような不純物が混じっていたとしても、水蒸気として蒸発すると、元の清浄無垢な水に戻ります。ことろで、みなさんの心のなかには、そうした浄化作用がはたしてあるでしょうか。
みなさんはどのようにして自分自身の思いや行いを浄化していくのでしょうか。そのために、私は反省という修法も教えています。
しかし、私はここで、もう少し単純な教えを再確認しておきたいのです。
それは「足ることを知る」という教えです。幸福の科学の会員にとって、これはごく当然の教えでしょう。聞いたことや読んだことがあり、すでに分かったような気持ちになっているでしょう。しかし、充分に実践できていないはずです。
なぜなら、水とは違って、人間の心には意志があるからです。意志というものは、常に統御し、訓練して、仏の方向を向いているようにしておかないと、とんでもない方向を向いて、自分自身を間違わせてしまいます。その最大のものは「自分が、自分が」と思い上がる心です。そうした心は自分を尊大にし、自と他の区別をますますはっきりさせていきます。それが単なる区別にとどまるうちはよいのですが、やがて、他の者を見下すようになっていきます。これは恐ろしいことです。
人間は互いに協力し合って生きている存在です。そして、それよりももっと大切なのは、「人間は生かされている存在である」ということです。水は何も考えることなく、偉大なる転生輪廻ともいえる循環を通して、大いなる働きをしています。人間もまた、大いなる循環、輪廻のなかにあるという事実があります。
その事実を知ったとき、みなさんには、感謝する心がどれほどあるでしょうか。みなさんはなかなか足ることを知りません。一粒の水滴にさえなれないのが、みなさんのありのままの姿ではないでしょうか。水は自然に流れていき、自然に蒸発し、自然に雨となって、その仕事が果たせるのです。みなさんも自然な心を忘れてはなりません。そのために必要な心掛けが「足ることを知る」ということです。反省が難しいならば、「足ることを知る」ということを、いつも自分に言い聞かせてください。
みなさんは生かされています。「目が覚めたら、命があった」ということを喜ぶ心があっても、おかしくないではありませんか。「三度の食事に不自由しない」ということを、うれしく思ってもよいのではないでしょうか。
「空気が清浄で、酸素がおいしい」ということに感謝する気持ちがあってもよいのではないでしょうか。
足ることを知らない心は、自分のみを見て、他を見ない心です。自分が生きていることのみ知って、生かされていることを知らない心です。
最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございました。