みなさん、こんにちは。これから、五回にわたって、人間の死後の世界を、大川隆法総裁先生の書籍「悟りに到る道」の中の、第一章の「天国と地獄」を全文、記載したいと思います。私たちにとって、とても大事な大事な、そして、今まで知らなかった世界の話であるので、ぜひ・是非読んで下さい。お願いします。

 

大川隆法総裁先生の書籍 悟りに到る道 第一章 「天国と地獄」の参照です。

 

生前を映すスクリーン

 

やがて、お城もしくは役所のようなものが見えてきます。                                この霊界に入ってくるときは自分ひとりだったのに、そこには整理番号をもらって並んでいる大勢の仲間がいて、「お宅さんもですか」とか、「何してましたか」とか、「どうして死んだのですか」などと話しあっているのです。                                ここで集められて、整理番号を渡されてゆくのです。          

 

そして、「これから先どうなるのだろうか」と、みんなで不安そうに相談しあったりします。お互いに相手の心のうちを見ながら、「いや、あんたさんは、善行を積まれたからきっと大丈夫でしょう」とか、「私はちょっと危ないのです。家内も知らなかったことがございまして」とか、「危ないかなあ」とか、そこで不安なことを先取りして、いろいろと言っているのです。やがて順番が来ると、ちょっとした広場のようなところへ出されます。そこは近代的なところもあれば、非常に古いところもあります。     ここの役所まできますと、あの世の天界からもいろいろな方が降りてきて、見にきたりしています。                       

 

そして、当会の本に書いてあるように、広場のスクリーンのようなものに、生前のその人の生き方というのがサーッと映し出されるのです。それで、裁判の傍聴をするような、あるいは陪審員のような感じで、いろいろと感心のある人が見にきたりすることがあるのです。それは、映画のようにもなります。歳をとった方ですと、鏡のようなものに映したりすることもあります。                             いずれにしても、自分は八十年生きた、百二十年生きたと思っているかもしれませんが、不思議なことに、ほんの三十分か一時間程度の間に、その人の一生が全部映るのです。                       

 

本人が忘れていることまで、あらいざらい出てきます。そこで、まわりの人のさまざまな反応が出てきますし、その前で見ている自分自身が、「自分はいったいどんな生涯を送ったのか。自分は何者であるのか」ということを、徹底的に見せられるのです。                      すべての人に、その人のほんとうの人生があらいざらい見えてしまいます。この世で生きている人間は、人の目はいくらでもごまかすこともできるので、それほどわからないのですが、あの世にいったときには全部公開されます。そのときに、自分自身とは何者であるかということを知らされるのです。                                

 

そこで、「こういうふうにならないように、早めに反省をしなさい」というのが、当会の反省の教えなのです。                 「生きているうちから反省を始めておけば、早いですよ」というのは、このことなのです。                           たいていの方は、悪いことも思っていますし、悪いこともしているので、自分の一生が映ってきたときに、ゾクッとくるわけです。「嫌だな、ああ、もうすぐ、こんなことをするんだろうなあ」と思ったら、案の定そのシーンが出てきます。                  

 

「嫌だなあ。あれだけは出したくないな」と思うものが出てくるのです。その後の反省のシーンが映ったら、ほんとうにありがたいです。自分が反省しているところが映ったらホッとしますし、まわりの人も、「ああ、感心なところがあるものだな」という感じになるのです。ところが、そういうところが全然出てくることなく、「ああ、嫌なことをするな、するな、するな」と思っていると、その通りのことをして、「次、あれ、もしかして出るかな」と思ったら、その通り順番に出てくるわけです。これを見ているうちに、その人の表情がだんだん変わってきます。    

 

それは合格発表のときに、「やった!」と言っている人と、シュンとして「落ちたかなあ」と言っている人がいるのと同じように、これが終わるころになると、だいたい自分でわかるのです。「どうだった」ということを、審問官のような方に聞かれるのですが、「だめでしょうね」とか、そういう話になるわけです。そこで、いろいろなコースがあって、「あなたは一応、こういう予定になっているから、ここへおいでなさい。このコースを進みなさい」と道を示されます。                                   ただ、これでもまだ、死んでまっすぐ井戸に落ちてゆくような人よりはましなのです。                             

 

生前を反省するチャンスが与えられているだけ、まだましなのです。自分という人間とは何かを知らされ、あなたはこういう人生を生きてきたということ、あなたの魂にとって、いちばん必要な学習は何だと思うかということを確認させられ、ここがいちばんの問題だということを教えられますから、それにふさわしいところに行って修行をしなさいということになります。

 

心の思いに応じた世界へ

 

あの世では悪いところを直すためにどのようにするかと言いますと、あの世の世界の法則は心の法則ですから、同類相集まる、波長同通の世界で、自分とまったく同じようなタイプの人を集めるのです。そして、ゴシゴシと芋を洗うように、お互いにお互いを見ていて、嫌になるまで自分の醜さのようなものを味わうことになるのです。      

 

すなわち、地獄へ行った場合、自分の醜さとまったく同じパターンを持った人と、嫌になるまで出会うのです。                   みなさんも、生きている中で、自分とよく似た人を見たら「嫌だなあ、この人は」と思うでしょう。                       「自分は早食いが自慢だ」という人でも、早食いの人が大勢集まって食べていたら、何だか嫌になってくるでしょう。

 

「自分はミス・コンテストに出たい」と思っている人でも、そんな人ばかりたくさんいたら、やはりなんとなく嫌になるでしょう。このように、自分と同じような人をあまり見過ぎると嫌になるものです。 これは、自分の尊厳を害されたような気がするからです。同様に、あの世の世界でも同じようなタイプの人と会うのです。そして、地獄なら地獄に入っていったときに、最初はあまりの驚きのために口もきけないような状況になります。                

 

「反省の原点」の講演(1992年第三回大講演会)でも述べましたが、あの世の世界というのは、結局のところ、主観のみの世界なのです。自分の心のみ、心しかない世界です。客観的なことは何もありません。心だけなのです。                          まるでインディ・ジヨン‐ンズの世界のように、次から次へといろいろな光景が出てきます。                           この反対も場合もあります。そのスクリーンを見てから、天国に行く方もいます。死ぬときに一度、友人や両親や先生といった方が来てくれると述べましたが、天国に行く場合には、その段階でもう一回来てくれます。      

 

生前についての反省会のときにももう一回来てくれて、「よかったね、よかったね」と言ってくれ、「じゃあ、いっしょに行こうか」と、その人が住んでいる世界まで連れていってくれることがよくあります。最初は、懐かしいものですから、昔の家族や友人といっしょの生活をしばらくしていることがあるのですが、だんだんそぐわなくなってきます。魂が合わなくなってくるのです。                  「昔はあんなに親しかったのに、どうしたのかなあ。昔は両親といっしょの家族団らんがとてもよかったのに、どうしたのだろうか。もうひとつ両親と合わないなあ」と、何か合わない感じがしてきます。  

 

この「しっくりこない」という感じが、実は、まさしくその人の霊格の問題なのです。                             それを低く感じるか、高く感じるか、それは人次第です。そして、その村に住んでいる人たちを見ていて、「何か物足りないな。ちょっと違うな。自分が住む村としては、なんだかちょっと変だな」という感じがしてくる頃合いになると、また次の導きの天使なり、そういう係の方が来て、「では、次の所に連れてゆこうかな」ということになり、だんだんあの世でも魂の学習をするようになります。                      

 

もちろん、生きているときにある程度悟りを開いて、天使としての自覚をもっておられるような方は別で、例外的に、もうひとつ別のルートがあります。それは、割合早いかたちで、そういう世界をドームのような超エスカレーターに乗っているようにスーッと一気に上がってゆく方で、このような方も稀にはいます。                                   そういう方の場合は、あの世に上がってゆくときに、天使の羽のようなものが見えてきたり、天女の格好になっていったりと、上昇してゆくにつれて自分の格好が変わってきます。                         

 

「お坊さんのような恰好になってきたな」という方もいるし、女性ですと、「あれ、天女みたいになってきたわ」というふうになることあるし、そのように変化しながら上がっていって、元いたところにまっしぐらに還れる方も、稀ではありますが、いることはいます。こういうふうに、あの世の世界というものは、その人の生前の人生すべてが、あの世のどこへ行くかをストレートに決めるのです。                                             

 

ですから、これは完全に自己責任の原則なのです。この世に生まれたら、もちろん環境とかいろいろなことがあるでしょうが、結局は、人間それぞれが小さな神のようなものであり、自分の判断で、人生を主体的に選んでゆけるようになっているのです。           自分の判断で選べるからこそ、そのような自己責任の原則が出てきて、来世の天国と地獄というものも現れてくるのです。             これを知って下さい。ですから、来世、もし苦しい環境が出てきたとしたら、これを決して神仏のせいや、自分の家庭環境のせいや、教育環境のせいや、お金の問題や、友人・知人、会社の同僚などの責任にしてはなりません。                                    

 

「これは自己責任の原則によるのだ」ということを、まず受け止めることが出発点なのです。                                                       「自己責任だ」と受け止めた後、「いったい何がいけなかったのか」を自分に問うことが次のステップなのです。                                  このように、あの世の世界では、徹底的に、「自分とは何か」ということを見せつけられます。                             「それを少し早めにしましょう」というのが、こういう宗教の流れなのです。                                                 「ほんとうはあの世ですることですが、あらかじめ予習しておきましょう。そうするとだいぶ修行が進みますよ」というのが、宗教の世界であるわけです。

 

老荘年期の過ごし方

 

和顔愛語・慈眼

 

以上、死後の世界について話をしましたが、特に、老荘年期に入っておられる方は、いずれ、あと五年、十年、二十年であの世に渡るわけですから、そういう年代の方に、気をつけておかねばならないことをアドバイスしておきたいと思います。                       だいたい五十五歳から六十歳を過ぎたら、こういうふうに考えねばいけないということを、簡単に言っておきます。                              

 

人生の最後十年ぐらいというのは、非常に大きな意味を占めています。実際は、すでにこの世的な仕事を終わっていることが多いでしょうが、この十年ぐらいというのは非常に大きな意味合いがあり、これが来世の入学試験の前の機関なのです。                                       ここをどのような精神状態で過ごすかということが、来世の生き方に非常に関係があります。                                          気をつけてほしいことの第一は、いわゆる「和顔愛語」ーー優しい顔、安らいで和らいだ顔、それから、優しい愛ある言葉です。                      そうした優しい顔、人に対する優しい言葉、これを特に気をつけてください。                                               

 

これは毎日毎日の心がけです。鏡を見たときに、優しい顔をしているか、それから、人に対して、好意のこもった話、その人が聞いて喜ぶような話ができているか、これをまずチェックしていただきたいのです。                                         心の状態が悪いと、まず顔つきが悪くなってきますから気をつけてください。                                                     顔の点検のひとつに、「慈眼」というものがあります。                                

 

鏡で自分の目をよく見てください。慈眼、慈悲の目であるかどうか、光を持った、目尻の優しい、そういう目かどうかをよく見ていただきたいのです。地獄に行く方というのは、普通、目が濁っています。自分の目を見て、目が濁っているかどうか、よく見ていただきたいのです。目が濁っているようですと、まだ修行が残っていますから、どうか心を透明にして、他の人に対する優しい心を起こしてください。                          

 

和顔愛語、それから慈眼、これをとりわけ大事にしていただきたいと思います。

 

最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございました。