大川隆法総裁先生 書籍・瞑想の極意より 参照です。

 

「足ることを知る瞑想」というのがあるわけであります。                                              これも自分自身が当然かどうかというのをもう一回再確認しなさい、ということであります。                                                                                             人間はひじょうに恵まれているのです。                                                           自分の人生を考えてみてもひじょうに恵まれているのです。この会場で今こういう話を聞いているということも、あるいは恵まれたことかもしれません。

ただこの恵まれたという事実、幸福であるという事実は、他のものと比較しようのない事実であるがために、その価値の認定と判定が個人の主観にゆだねられているわけであります。                                                                  

 

それを小さなものと考えたならば、それはつまらないものかもしれません。

しかし、別の観点から絶対的なる観点からみたときに、真理の縁に触れ、それを学んで行くということは、これは 恵果和尚 も言っているように、なにものにも代えがたい、王侯の位にも代えがたい値打ちがあるということである。こういう考えもあります。

足ることを知る瞑想を、それをまた別の角度から見直してみるとするならば、真理の縁に触れて、その中で生きていける自分というものを知ったということでもって、これですべてであるという考えもあるということであります。

それに何のプラスアルファを求めようとしているのか、これが言いたいわけであります。                                                                                             

 

なぜ他人の評価が欲しいのか。                                                                                 なぜ世間から見てりっぱだと言われたいのか。                                                                                                     なぜ隣の人から見てりっぱだと言われたいのか。                                                                                                                                 成功していると言われたいのか。これを私は問うわけであります。

足ることを知るという考え方の中には、絶対的なる価値の発見ということがあるということであります。                                                                                                すべてを手に入れなければ満足しないという考え方の人もいます。    

 

あれも手に入れる。これも手に入れる。すべて世の中の人が見たらいいと思うものは、全部自分のまわりに集めたい。                                                                自分の一身に集めたいという考え方もありますが、一つのものの中にすべてを発見する という生き方もあるということも知らねばならないということです。

 

すなわち全世界をくまなく踏破しなければ、神の創られた世界が分からないと思う人もいるかもしれませんけれども、一輪の花の中に神の世界を見る人もいるということであります。

それはウイリアム・ブレイクのような詩人に与えられた特権ではなくて、みなさんご自身一人一人の中に、そうした価値観、そうしたものを見る目というものが与えられているのです。

それが自分はあれも欲しい、これも欲しい、そういう思いでもって勝手に、その値打ちを小さく見積もっているのであります。                                                                                             

 

今、真理の縁に触れ、今、法に触れ、それを学んでいるということは、会社の中でみなさんが同期より一年早く出世するか、一年遅く出世するか、そんなこととは何の関係もないわけであります。                                                                                          その時点において真理の縁に触れて、それを学んでいるときに、そうしたことが浮かんでくるようであっては、まだまだ十分ではないのであります。

 

私はこの「足ることを知る瞑想」ということの中には、詳しくいろんなことが書いてありますが、これを敢えて私なりに解釈し直して言い直すとするならば、

 

一つの中にすべてを見出していくようなみなさん方であってほしい。 一つの価値の中に神の創られた世界を見抜いていくような、みなさん方であってほしい。                                                                                                              この一筋の中にすべて自分の人生を織り込んでいくような、みなさん方であってほしい。

 

そういうふうに願うわけであります。

足ることを知るということは、決して少量のものでよいとか、腹八分目でよいとかいうようなことを言っているのではないのです。          

すべてこの世に存在しているものの中には、神へとつながる通路があるのです。                                                                                          そうであるならば、自分がいちばん恵まれているものの中に、神の栄光を抱きしめるということが、大事なのではないでしょうか。                  

みなさんはあれもこれも欲しいとは思わずに、自分自身を見つめたときに、その中に神から非常に愛されていると思う部分があったなら、その部分を愛しぬくことです。                                                                                              信じぬくことです。私はそう思います。これが足ることを知る瞑想ということであります。

 

最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございます。