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パレスチナとイスラエル兵役拒否

 

 

シェアさせてもらった記事からの抜粋です。

元記事様には過去記事も含めて、とても参考になる詳細な各記事や動画等の情報がたくさんありますので、

さらなる情報に興味を持ってくださった時はぜひ元記事様でご確認ください。

 

『イスラエル人による良心的兵役拒否は近年始まったものではなく、「建国」後70年余という若い国において既に長い、前世紀 = もちろん20世紀後半 = に遡るほどの歴史があるのだが、

ごくごく最近のイスラエルの若者たちによる兵役拒否に関しては(兵役拒否自体はいつも意義あることながら)、今回において特に文字通り「特筆」すべきことがある。

本章で紹介する記事は、+972 Magazine というイスラエル人とパレスチナ人ジャーナリストによる独立系・非営利メディア

によるもので、フォト・ジャーナリスト兼「反占領」活動家で、パレスチナ/イスラエルにおいてドキュメンタリーの写真や動画を撮ってリポートするフォトグラファーたちの共同体 Activestills の創立メンバーでもある Oren Ziv という名のイスラエル人の署名記事

「『我々は責任を負っている』: 6010代の(イスラエル人の)若者たちがイスラエル国軍の兵役を拒否することを宣言」。

 

 

 

 

和訳は説明を伴う意訳にせざるを得ないが、「数十人のイスラエル十代の若者たち公開書簡署名し、兵役拒否を宣言すると共に母国イスラエルによるアパルトヘイト政策、新自由主義

(彼らイスラエルの若者たちは、イスラエルによる占領下で生きることを強いられ続けているパレスチナ人を引き合いに出しながら「新自由主義」に言及している)

の政策、そして(1948年のイスラエル『建国』が引き起こしたパレスチナ人にとっての極めて大きな不幸、大災難である)『ナクバ』の事実の否定に対して、異議申し立てを行なう」。

記事は本年 202116日付、イスラエルの兵役拒否者として同国の高校生たちが同・政府高官

(具体的には国防大臣 Benny Gantz, 教育大臣 Yoav Galant, そして IDF, Israel Defense Forces つまりイスラエル「国防参謀総長もしくは幕僚長 Aviv Kochavi

宛ての書簡を公開したのはその前日、202115日である。

男女を問わず「国民皆兵」の国であるイスラエルにおいて、若者たちは「高校」卒業と同時に兵役に就かねばならないということである。

記事中でもリンクが貼られている彼らの公開書簡は、以下のリンク先。

 

 

 

 

さて、今回の兵役拒否者による公開書簡の内容が画期的であるのは、彼らが 1967年以来のイスラエルによるパレスチナ占領地

(東エルサレムとヨルダン川西岸地区およびガザ地区, ここにおいても単に「ヨルダン川西岸地区」という呼称だけを挙げるのではなくイスラエルが国際社会の声に抗って一方的に同国の首都としアメリカ合州国のトランプ政権がテルアヴィヴから大使館を移転したエルサレムの中の旧市街がある「東エルサレム」をその占領地として挙げていることにも留意)

やイスラエルによるパレスチナ人に対するアパルトヘイト政策といった従来からの多くの兵役拒否者の主張の範囲に留まらず、公開書簡という公の場において、「ナクバ」に言及していることである。

今回のイスラエル兵役拒否者たちは、1948年の母国イスラエル建国によって膨大な数に上るパレスチナ人たちが自身の土地や家を失って故郷を追われた彼らパレスチナ人にとっての大災厄ナクバ」の歴史的事実、そして 1967年以降の「占領も含め、今ある問題が全てそのこと(1948年、「ナクバ」)の直接的な結果であるということから目を背けて平和を構築することなど不可能だと言っている。

「ナクバ」に触れることはシオニズムへの批判とともにメインストリームのイスラエル社会においては完全にタブーであって、同国におけるシオニズムを背景としたイスラエル「建国の教育を受けてきたばかりの年齢に当たるイスラエルの高校生たちが、そのタブーに抗いながらイスラエル社会問題提起したことの意味は極めて大きい。

 

イスラエル人の歴史家であるイラン・パペが以下のヴィデオの中で

語っているように、長年シオニズムによる教育のもとで「(その)シオニズムによるユダヤ人の移民がパレスチナの土地にやって来た時、パレスチナには今日パレスチナ人と呼ばれる人間(実際にはパレスチナの住民において人口の上でも土地所有率でも圧倒的多数派であったアラブ人)など居なかった、彼らは実はパレスチナに住んでいなかった」などという虚構教育されて来た、あるいはそんな教育を体制側が人々に与えて来たイスラエルの社会において、1948年のイスラエル建国に伴って 70~80万人もの膨大な数パレスチナのアラブ系住民である「パレスチナ人」が彼らの故郷土地失ったことを意味する「ナクバ」の事実は、タブーとならざるを得なかったわけである。

今でも、「パレスチナ人」とは実はヨルダンやシリア、エジプトなどからあの土地に近年になって移り住んできた、侵入して来た人間なのだというような荒唐無稽の「物語」を語るシオニストのイスラエル人やユダヤ人はいる。

 

 

 

パレスチナとイスラエル兵役拒否

 

 

 

 

シェアさせてもらった記事からの抜粋です。

元記事様には過去記事も含めて、とても参考になる詳細な各記事や動画等の情報がたくさんありますので、

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『最近の パレスチナ/イスラエル の動向に関して

 

現在, この地域における暴力の連鎖にかかる事態は刻々と深刻さを増しているが、この 1週間程度の間に犠牲になった人の数について触れておくと, 筆者が様々なメディアの情報(BBC などの視点なり情報なりが些か不十分にも思えるメインストリームのメディアからソーシャルメディアなどに至るまで, 今日2021515, 日本時間午後5時頃まで)で把握する限り, イスラエルが 19676月の侵攻と占領

(占領されたのは東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区, ガザ地区, さらにシリアのゴラン高原の一部, 及びこれまでに唯一「返還」されているエジプトのシナイ半島)

以来, 同年1122日に採択された国連安保理決議242号等に違反しながら不当に占領を続ける東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区において違法占領下のパレスチナ人占領軍であるイスラエル軍や占領地内のイスラエル人違法入植者たちによって 10人以上殺され, またガザ地区

2005年までにイスラエルは同地区における違法なイスラエル人入植地を撤去し且つ陸軍を撤退させたが一方で周囲を封鎖した, 2006年にガザ地区における選挙でイスラム原理主義組織ハマスが台頭するとイスラエルによるボーダー管理・封鎖はさらに強化され, 以降約15にわたりイスラエルによるガザ地区軍事封鎖が続き, 同地区は人や物資の出入り大きく制限されている

:つまりガザ地区のパレスチナ人には「逃げ場」が全くない

ではイスラエルによる空爆により 30人以上の子供たち, 20人以上の成人女性を含む 130人以上殺され負傷者 900人前後, 空爆で家を失った人の数は不詳, つまりイスラエルはハマスからのロケット攻撃を口実にガザ地区の住宅地空爆し続けている; さらに陸軍による地上侵攻開始した)、そして、「ガザ地区内」を実効支配するハマス

(「ガザ 地区内」という書き方をしたのは, ボーダーをイスラエルによって完全に軍事封鎖されている環境下, ハマスのガザ地区「支配」というのはある意味「名ばかり」とも言えるからである)

によるイスラエルに対するロケット攻撃によって命を落としたイスラエル人 8(もしくは 9)。

イスラエル寄りもしくは少なくとも「中立を装うようなメディアにおいて, ハマスによるイスラエルへのロケット攻撃を今の「危機的事態」における時系列的なスタートに置く例がしばしば見受けられるが

(もちろん筆者はハマスによる一般市民を巻き込んだ無差別攻撃を支持しないし, そもそも武力による解決それ自体を支持しない, イスラム原理主義組織ハマスの政策や戦略の多くを根本的に支持しない, 筆者個人はハマスに対して完全に批判者である)、

そうした報道は, 報道を受け取る側の多くの人による背景理解を大いに誤ったものにしかねないものである。

上に挙げたような今現在の「危機的事態」を時系列的に説明していくなら, こうしたことを挙げねばならない。つまり、まずはイスラエルによって 東エルサレムのシェイク・ジャッラ地区(そもそもこの地区はイスラエルが上に書いたように 1967年以来 国連安保理決議に違反しながら不当に占領を続けている東エルサレム内にあるパレスチナ人の居住地域)から強制的にパレスチナ人が追い出されようとしていることに対するパレスチナ人の抗議があり、この抗議デモに対する占領軍イスラエル軍による弾圧が続き, さらにイスラエルの治安部隊によって, イスラム教(宗教に関して言うとパレスチナ人においてはイスラームが多数派だが, 他にクリスチャンや無神論者もいる, 念のため)において最も「神聖な」モスクの一つとされる東エルサレムのアル=アクサー・モスクに向かうルートをバリケード等などでこれまで以上に厳しく制御されるという事態が パレスチナ人たちの更なる反発を呼び、果てはそのアル=アクサー・モスクの中にまでイスラエル治安部隊が手榴弾催涙ガスによる攻撃を仕掛けるといった暴挙(これはそもそも宗教戦争などでは全く無いパレスチナ/イスラエル問題を「宗教紛争」化しようとするかのようなイスラエル側の愚挙)があり、その前後にはイスラエル全土やイスラエルによる違法占領下の東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区内において「アラブに死を」といった憎悪のスローガンを叫ぶイスラエル人

(前者ではイスラエル内のアラブ系つまり「パレスチナ」系市民に対して, 後者においてはイスラエル人違法入植者によって違法占領下のパレスチナ人に対して)

の群衆の動きが活発化する, 等々, そういった, 様々な, 複合的な緊張・緊迫の事態が進んでいたのである』

 


アル=アクサー・モスクに対するイスラエル治安部隊襲撃(日本語字幕付き)

 

 

 

 

しかしながら、前段の冒頭で挙げた東エルサレムのシェイク・ジャッラ地区からのパレスチナ人追放の問題ですら, それは「今般の危機的事態」の始まりの一つであって、実際には根本的な問題の「始まり」では全く無い。つまり、前章で概観したイスラエル建国」(1948年)の前から続くシオニストによるパレスチナ人に対する民族浄化

今も続いているのであって、すなわちそのことは「ナクバが今も続いている」とも言えるのであって、この大きな「パレスチナ/イスラエル問題」を見る事なしに, 同地域における危機を語ることは本来的に不可能なことなのである。

 

なお、パレスチナに軍隊があるかのような大いなる誤解をしている人も少なくないのではないかと思われるが、イスラエル「建国」(1948年)以降70年以上にわたるイスラエルのシオニスト勢力による強力な支配のもと, いまだ国の体裁を整えるに至らないパレスチナ側には正規の軍隊はない。もちろんパレスチナは戦車など 1台も保有しておらず、イスラエル側が保有する(イスラエルを徹頭徹尾支援し続けるアメリカ合州国の最新鋭戦闘機である)F-35戦闘機など持ちようがない。パレスチナ側にある「武器」はパレスチナ人の言論と文字通りの「石」などの原始的「武器」、そして武装組織としてのハマスが持つロケットなどであるが、そのロケットも「アイアンドーム」と呼ばれる最新鋭の防空システムを持つイスラエルからしたら、かなり原始的なものであるに違いない。

 

 

パレスチナとイスラエル兵役拒否

 

 

シェアさせてもらった記事からの抜粋です。

元記事様には過去記事も含めて、とても参考になる詳細な各記事や動画等の情報がたくさんありますので、

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ナクバとは、1948514日のイスラエル「建国」に伴い、その数ヶ月前から始まっていたシオニストの民兵によるパレスチナ人に対する民族浄化

194849日、イスラエル「建国」前のパレスチナのディール・ヤシン村でユダヤ人のシオニスト民兵たちが女性や子どもを含むパレスチナ人村民254人を虐殺した事件をはじめ、数々の虐殺行為があった:因みにディール・ヤシン村虐殺の首謀者そのリーダーであったメナヘム・ベギンは後にイスラエルの首相になっている)

とイスラエル・アラブ諸国間の戦争により、翌1949年にかけて 500以上パレスチナ人の村破壊され70~80万人75~90万人とする説もあり100万人近いとする見方もある)のパレスチナ人が故郷の土地と家を失って難民となったことを言い表わす言葉である。

ナクバはアラビア語であり(النكبة, al-Nakbah, Nakba)、直訳すれば、大破局、大災厄、大惨事、破滅的な状況、極めて大きな不幸といった意味合いになる。先に書いたイスラエル「建国」前後の期間に起きたことを指すのが一般的だが、一方でその後の70年余にわたり今現在も続くパレスチナ人の苦難をも含めて「ナクバ」と呼ぶ、すなわち「今もナクバが続いている」という文脈で使われる、広義の言い方もある。

また、ここでいうパレスチナ人とは、紀元前からの歴史があり16世紀以降その地を支配していたオスマン帝国が第一次世界大戦の敗戦国となって以降は戦勝国となった大英帝国、イギリスが 1918年から占領を開始、1920年からは「イギリス委任統治領パレスチナ」となっていた土地に、当時人口の上でも土地所有率の上でも圧倒的多数派として居住していたアラブ系住民を指す。

1918年にイギリスが行なったパレスチナにおける人口調査によればアラブ人(ここで言うパレスチナ人)の人口は 700,000人、ユダヤ人のそれは 56,000人と前者の 1/12 以下だったが、その後、ヨーロッパにおける長年のユダヤ人差別の歴史を背景に(直接的きっかけは1894年のフランスにおけるドレフュス事件)前世紀 19世紀末に始まったシオニズムによるユダヤ人のパレスチナへの移民の動きが急速に拡大した結果

(その原因の一つは1917年のイギリスによるシオニズム支持表明と言える「バルフォア宣言」、そして更に加速度的に拡大、つまりユダヤ人の移民を急増させたのはヨーロッパを席巻したナチス・ドイツによるユダヤ人迫害・弾圧・ホロコーストであった)、

19471129日の「国連パレスチナ分割」案決議の際の報告書によれば、その時点でのパレスチナにおける人口は、アラブ人とその他(その他とはアルメニア人やギリシャ人などの少数を指し、したがってこの大半はアラブ人 = パレスチナ人を意味する)が 1,237,000人と全体の 67%を占め依然として多数派であったものの、一方でユダヤ人は 608,000人にまでその人口を増やしていた(それでもイスラエル「建国」当時のパレスチナにおけるユダヤ人の人口は全体の 1/3 未満に留まっていたことになるわけだが)。

因みに上記の「国連パレスチナ分割」案は、いわゆる三大宗教の聖地があるエルサレム市については国連を施政権者として信託統治とするとしたうえで、その時点でなお人口でアラブ人(現在言うところのパレスチナ人)の半分に満たず、また土地所有率に関しては全体の 8%にも届いていなかった(上記の通りもともと人口のうえで絶対的な少数派だったユダヤ人が30年ほどの短期の間の大規模な移民によって人口を増やしたのだからこれは当然の数字ではあった)ユダヤ人の側の新国家(後のイスラエル)にパレスチナの土地 56%を与え多数派であったアラブ人(同、パレスチナ人)側のものになるとして予定された国には 43%の土地しか与えないという、極めて不当・不公平・不公正なものだった。

結局、イスラエル「建国から始まっていたシオニストのユダヤ人によるパレスチナ人に対する民族浄化キャンペーン(虐殺など)、そしてイスラエル「建国」とイスラエル・アラブ諸国間の戦争の結果(パレスチナ人にとっては「ナクバ」)、1948年「建国」当時のパレスチナにおける人口において全体の 1/3 未満だったユダヤ人シオニストたちの新興国家イスラエル」は、パレスチナ全体の約8割の土地を獲得することになった。

そしてその後、イスラエルは残ったパレスチナ人の土地、すなわち以降はヨルダンが統治していた東エルサレムとヨルダン川西岸地区およびエジプトが統治していたガザ地区の全てを 1967年の第三次中東戦争により占領することとなり、「歴史的パレスチナ」全土がイスラエルによって支配されることになったわけである(なお 19671122日採択の国連安保理決議242号を含む複数の安保理決議が 1967年の占領地からのイスラエルの撤退を要求し続けている)。

 

 

Haaretz, 2020104日付の記事

 

 

記事のヘッド(見出し)にある Ben-Gurion (David Ben-Gurion) とは、1948年にパレスチナの地

(パレスチナという名称は遥か昔の紀元前からあったが、この当時、直前 1920年から1948年までの正式名称は「委任統治領パレスチナ」, Mandatory Palestine もしくは「イギリス委任統治領パレスチナ」, British Mandate for Palestine で、その直前に関しては 16世紀以降の長い支配が続いた「オスマン帝国」の統治下にあった地域)

の上に「建国」された「イスラエル」という名の新興国家の「建国の父」であり、初代イスラエル首相であった人のこと。

そして、その「イスラエル」という名の「新興国家」は、1948514日の一方的な「建国宣言」

(一方の当事者であるアラブ系、現在いうところのパレスチナ人たちの意思を無視したわけだから一方的、イスラエルはこれを「独立宣言」と呼ぶが、上にも書いたように、それ以前にそこにあったのはオスマン帝国の支配が終わった後のイギリス委任統治領パレスチナ = その人口の圧倒的多数アラブ系、いま言うところのパレスチナ人 = であって、その地において当時「イスラエル」という名の国やあるいは名前は別としてもユダヤ人の国イギリスの植民地下にあったというような事実は全く、文字通り全く無い

と第一次中東戦争の結果によって、パレスチナ地域において、前年1947年採択の「国連パレスチナ分割」案における不当・不公正・不公平な内容のものよりも更に広い土地を得ることになった』