パレスチナ人とエチオピア系イスラエル人 | みなるんのブログ

パレスチナ人とエチオピア系イスラエル人

 

 

 

シェアさせてもらった記事からの抜粋です。

今回の記事、重要な内容だと思い日本語訳でシェアさせてもらいましたが、

様々な人種や、そしてそれに対する言葉の表現が独特なものが多く、いつも以上に翻訳に自信がありません。

なので、この記事を知ってもらう意味であくまでも参考として読んでもらったうえで、興味を持ってくれた際はさらに御自分で調べてもらえると幸いです。

 

 

「パレスチナ人女性として、エチオピアの闘いを支援するのは私の義理です」

(サマ・サライメは、フェミニストのパレスチナ活動家であり作家です)

2019715

 

イスラエル社会で最も抑圧されている集団として、

イスラエルのパレスチナ人は

(みなるん注:イスラエルに住むアラブ系市民であるパレスチナ人?)

人種差別と警察の残虐行為に抗議するエチオピア系イスラエル人と共に

立ち上がる義理がある。

 

(みなるん注:「私の義理です」「立ち上がる義理がある」

ともに「duty」「obligation」なので、「義務」と訳する方が一般的かもしれませんが、

この記事の内容的には「義理」が一番適している気がしてこの訳にしました)

 

 

201973日、テルアビブ中心部で警察の残虐行為と人種差別に抗議するエチオピア系イスラエル人デモ参加者を逮捕するイスラエル警察官。(オーレン・ジブ/Activestills.org)

 

 

「ブラック・インティファーダ」が勃発したのは、ちょうど私が母とモロッコに旅行している最中でした。

しかし、故郷から何千キロも離れたその静かな王国であっても、

イスラエル社会の内部で起こっている公的な会話をシャットアウトすることは不可能だった。

 

モロッコの都市エッサウィラのメラとして知られるユダヤ人街では、

セネガルやコンゴなどのアフリカ諸国からの移民たちが、木や象牙でできた手作り品を私たちに売ろうとして通りを徘徊していた。

彼らが地元の人ではないことは誰の目にも明らかでした。

いつか、それらの移民はモロッコの一部となるだろう。

モロッコにはすでに植民地支配の名残の白人から肌の色が黒い難民まで、あらゆる肌の色の国民が含まれている。

70年後、この場所はどうなっているのだろうと私は考えました。

世界三大宗教の信者間、

先住民アマジグ族(みなるん注:一般的に使われているという「ベルベル人」という名称は、ローマ人による蔑称であるという説も)

イスラム帝国からやって来たアラブ人との調和、

異なる民族・文化集団間の調和のとれた関係を誇るモロッコは、

何千人もの移民労働者や難民と、どのように戦うのだろうか。

 

6月末に警察がソロモン・テカさんを殺害したことを受けて、人種差別と警察の残虐行為に反対するデモの最中に、

エチオピア系イスラエル人抗議者達が

「パレスチナを解放せよ」

「アッラーフ・アクバル(みなるん注:イスラム教の祈り等での言葉「アッラーは最も偉大なり」)と叫んでいる

映像を見たモロッコ人がいることを知って驚いた。

彼らはイスラエルで何が起こっているのかを知りたがっていましたが、

なぜ、イスラエルのユダヤ人が

アフリカから来たユダヤ人を虐待するのか

理解するのに苦労していました。

 

「モロッコのユダヤ人も、黒人を虐待するのですか?

それは、とても奇妙です」

とベンダーの一人は私に語った。

彼女はそれが真実であることを知り、がっかりしていました。

ミズラヒムはモロッコ出身者だけでなく、差別に積極的な役割を果たし、差別を助長しています。

(みなるん注:ここの訳、直訳としてはその言葉になるかもしれませんが、

もし筆者さんの独特な表現があるとしたら、その後の記事の内容からしても、もしかすると、イスラエル政府やイスラエル軍のエチオピア系イスラエル人への差別をミズラヒムは【傍観】しているという意味もあるのかもしれません)

 

モロッコには、

エチオピアの抗議活動をシオニズムの終焉をもたらす前向きな展開と見る人達がいた。

「パレスチナのユダヤ人」というあだ名は、モロッコ在住のイスラエル人につけられたあだ名であり、

イスラエルの実権を握る入植者政府の解体につながり、イスラエルの政策のすべての犠牲者に変化への希望を抱かせる。

 

私はパーティーを台無しにしたくなかったが、彼らに対して正直に言わなければならなかった。

(みなるん注:「party」の訳にまよいました。もし「党」だとしたら政治的な考えと言うような意味かもしれませんし、「会」のような気もしましたが、結局わからなかったのでパーティーとしました)

これらの抗議活動では、エチオピア人もパレスチナ人も解放出来ないだろう。

エチオピア系イスラエル人の若者が警察官に殺害されたが、

パレスチナ人となると全く別の話であることは明らかだ。

警察は私達のことになると、はるかにトリガーハッピーです。

(みなるん注:「trigger-happy

おそらく、大まかに言うと「激しく反応する」ことであり、細かく言うと「銃のトリガーを引き、乱射していることに幸せを感じる人のこと」ではないでしょうか?)

娘の私と絆を深めたいと望む母のために、私は旅行を犠牲にしてでもその話し合いを続けました。

(みなるん注:これも訳に自信がありません。あくまでも、記事の内容的にそう訳してみました)

 

しかしどういうわけか、これはめったに起こらないことですが、

イスラエルのアラブ系市民が、

エチオピアの抗議活動を支援しなければならないことに

私達は意見が一致しました。

例え、彼らがユダヤ人で兵役に就いていたとしても、彼らは

依然として搾取され抑圧されています

私達はすべての被害者と共に戦う方法を見つける必要がある、と母は言いました。

「ソーシャルメディアで何が起こっているのか、お母さんにはわからないのよ」

私は彼女にそう言い、

多くのアラブ人は、イスラエルのユダヤ人同士が争っているのを見て喜んでおり、

パレスチナ人コミュニティとエチオピア人の連帯の可能性を見出すのに苦労していると説明した。

それは、お互いが関心を持ちづらいゆえ、利害が一致出来ないからです。

(みなるん注:その「we」が、サマさん本人がどう含まれたうえでの表現なのか悩みました。お母さんは「共に戦う」意味でもある「私達」に入っているかもしれませんが、サマさんの場合「支援」までで、共に戦うという部分には参加していないのか?)

 

 

201978日、ネタニアの非番だった警察官によって19歳のエチオピア人であるソロモン・テカさんが殺害されたことを受け、警察の暴力と差別に対する抗議活動中に警察がデモ参加者を逮捕する。(ロイ・アリマ/フラッシュ90

 

 

机上の空論では、この考え方は理にかなっているかもしれません。

組織的な人種差別、

警察による暴力、

数十年にわたる差別に直面しているエチオピア人は、

武力行使という極端な事例を経て目覚め、

その後、パレスチナ人を含む他の抑圧されている集団との共通の大義を自発的に見出すでしょう。

お互いが自分の過ちを認め、この国で権力と人種がどのように機能するかを理解した時にのみ、私たちは一歩踏み出すことができます。

ただし、そのようには機能しません。

私は、傍観しているイスラエルのパレスチナ人の消極性は根本的に間違っているだけでなく、

パレスチナ解放闘争にとって、何の利益にもならないと信じています。

この姿勢は過去 70 年間、私達自身を裏切ってきました。

私達は、ミズラヒ革命を60年間待ち続けましたが、無駄でした。

私達は、ユダヤ左翼がシオニズムの鎖から解放されるのを待ちましたが、無駄でした。

私達は、グループ間で会話したり協力したりしようとする試みを恐れ、

自分達のアイデンティティが、

イスラエルの人種の坩堝(るつぼ)の中に消えてしまうという考えそのものに反発していました。

 

はい、私たちを抑圧し、占領するグループと関係を結ばない正当な理由があることを私は知っています。

それを理解していますが、それでも私は

自分が住みたい社会で抑圧されているグループのために戦いたいと思っています。

国家、人種、性別というとてつもない流れの中にいる1人の人間として、

私には社会の中で果たすべき役割があります。

例え他者が、

私やマイピープルを抑圧するために、意図的に、または不本意に搾取されていたとしても、他者の解放において果たすべき役割があります。

(みなるん注:「例え~」からの訳も自信がありません。

特に「my people」の意味は、「家族」なのか「同じ人種」なのか「同じ国の人達」なのか…etc

特定出来なかったので「マイピープル」としました)

これは、パレスチナ人女性として、現在私が取ることができる最も強力なポジションです。

 

 

20151015日、エルサレム旧市街で目撃されたエチオピア国境警察官。(アフマド・アル・バズ/Activestills.org)

 

 

1948年にカフル・サブトの村が破壊された後、

家族が仮住まいを探していたため「テント娘」というあだ名で呼ばれていたパレスチナ難民であった私の母が、

エチオピア系イスラエル人の窮状を自分の中で理解できると私は信じている。

私の同胞であるパレスチナ人のほとんどもまた、内なる正義感を持ち続けているに違いありません。

 

私達は、ミズラヒムに何が起こったのかを学びました。

国家とその機関は1970年代に彼らの蜂起を鎮圧し、平等、民主主義、社会正義を求めた彼らの革命を抑圧しただけでなく、

右派は自らの政治的目的のためにミズラヒムを取り込んだ。

その間、周辺部のミズラヒムは、職業訓練専門学校制度を通じて追跡され続け、

占領者と入植者のために戦うために軍隊に入隊することになる。

 

 

当時、私たちアラブ人は、

占領とイスラエルにおける他民族の抑圧との関連性を説明していませんでした。

今、私達はここに来ることを選び、ここで生まれ、この土地に対する権利を持つすべての人々のために、

真の民主主義、平和、正義のための闘いの戦略を計画しなければなりません。

弱者を助け、既存の権力構造を解体し、より良い生活を求め、

解放のための闘う他のグループを支援することは、パレスチナ人としての私たちの役割です』