パレスチナ関連近況
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『01 Feb 2024
ガザ保健当局は、10月7日に始まった戦争で、
26,900人のパレスチナ人が死亡(過去24時間で150人)したと発表した。
イスラエル軍は、過去24時間にガザで少なくとも25人のパレスチナ人武装勢力を殺害し、
イスラエル兵3人が死亡したと発表した。
最新の空爆の後、ガザ市上空には煙が立ちこめ、そのうちのいくつかはハマスが運営する内務省本部を狙ったものだと、ハマスの運営するメディアや住民が伝えた。
ガザ中心部のアル・ヌセイラット難民キャンプも砲撃を受け、
ハーン・ユーニスでは、南部でまだ機能している最大のナセル病院周辺を戦車が攻撃した、と目撃者は語った。
ハーン・ユーニスでの負傷者の治療は、街頭での戦闘や砲撃の中でますます困難になっている。
ナセル病院の救急部門責任者であるナシム・ハッサン氏は、
「工業地区やいくつかの学校にいた避難民の負傷者が多い」と述べ、
「負傷者の多くは、荷車やトゥクトゥク、車、あるいは徒歩で運ばれた」と付け加えた。
赤新月社によると、火曜日、
イスラエル軍はハーン・ユーニスのアル・アマル病院を襲撃し、
避難民と職員に銃口を向けて避難を促したという。
イスラエル軍の報道官はこれを否定した。
赤新月社によると、水曜日、
75歳の女性と生後45日の女児が、数日間の酸素不足の後、アル・アマル病院で死亡し、病院の敷地内に埋葬された。
イスラエルは、この報告についてすぐにコメントしなかった。
ハマスの高官がロイターに語ったところによると、ガザ停戦案には3段階の停戦が含まれており、その間にハマスが10月7日に捕らえた人質のうち残りの民間人を解放し、次に兵士を解放し、最後に死んだ人質の遺体を解放するという。
パレスチナ人は停戦の可能性を歓迎したが、
戦闘は永久に終結しなければならないと述べた。
「戦争を終わらせ、私たちをガザ市と北部の自宅に戻さない停戦は、その価値がない」
と、ガザ市の自宅から南部のラファに逃れたアーメドさんは電話で語った。
「私たちは疲れ果てています」』
パレスチナ自治区ガザ地区南部に逃れてきた人々(2024年1月30日撮影)。(c)Mahmud Hams / AFP
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— Kumi@🇮💟🇨🇺☭ (@Kumi_japonesa) February 2, 2024
【家族を失ったパレスチナ人】
「家族がみんな殺された!」
「モハメド、耐えろ。私の家族もみんな逝ってしまった。頑張れモハメド。きっと家族の誰かはここにいるよ」
「もう、疲れた。ラビバ姉さん、どこにいるの?」
「彼女は病気だ」
「病気?どこにいるの?」 pic.twitter.com/1gISRrnM0q
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『【家族を失ったパレスチナ人】
「家族がみんな殺された!」
「モハメド、耐えろ。
私の家族もみんな逝ってしまった。
頑張れモハメド。
きっと家族の誰かはここにいるよ」
「もう、疲れた。
ラビバ姉さん、どこにいるの?」
「彼女は病気だ」
「病気?どこにいるの?」
「私だけでは見つけられない。どこにいるのかわからない。
私と探しに行こうか?
とにかく落ち着け、モハメド」
「私もともに召されたかった!
救助活動から戻ったら家が空爆されていた。
アラー!母を失うなんて思いもしなかった」
🔻悲しみのあまり気を失ったモハメドさん
🔻付き添う仲間も家族全員を失ったという』
2024年1月30日、イスラエルとパレスチナ武装勢力ハマスの紛争が続くなか、ガザ地区南部のハーン・ユニスから非難するパレスチナ避難民たち。(AFP)
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『03 Feb 2024
イスラエル地上軍の進撃を逃れた膨大な数の避難民が集まる、
ガザ地区南部の都市ラファの路上には、数万の人々があふれている。
「この数カ月は人生で最悪でした」と、ガザ地区北部のベイトゥ・ラヒアから避難してきたノハ・アル・マドゥンさんは語る。
彼女は子どもたちとともに親戚宅に身を寄せた。
「夫と長男はテントで眠っています。
全員の居場所はありません。
わたしたちは床に寝ていて、寒さがこたえます」
毛布が行き渡っていないためだと、彼女は言う。
「アパートは足りていませんし、追加でテントを張る場所さえないのです」
と、マドゥンさんは訴えた。
泊めてもらえる親戚がおらず、アパートを借りる収入もない人々は、
路上、広場、スポーツスタジアム、公園などにとにかく空いた場所を見つけ、テントを張って寝泊まりしている。
32歳のアブドゥルカリム・ミスバさんは、
北部のジャバリア難民キャンプの自宅を追われ、ハーン・ユーニスに到着したが、
再び避難を強いられた。
「わたしたちは先週、命からがらハーン・ユーニスを身ひとつで脱出しました。
泊まる場所は見つからず、最初の2晩は路上で眠りました。
女性と子どもたちはモスクに泊めてもらえました」
と、彼は語る。
その後、彼らは支援物資のテントを受け取り、エジプト国境のすぐ隣に設置した。
「4人の子どもたちは寒さに震えています。
体調はずっと悪いままです」
と、ミスバさんは言う。
ほとんどの人々は、イスラエル国境に近い東部や、戦闘が続くハーン・ユーニスに近く危険な北部を避け、
市の中心または西部に集まっている。
イスラエルへの越境攻撃を発端とする10月7日の開戦のあと、イスラエル軍はガザ地区住民に北部から避難するよう指示した。
避難指示の範囲はその後拡大し、多くのパレスチナ人は複数回にわたる避難を強いられた。
避難所として使われるラファの学校に身を寄せる、
ガザ市民のアムジャド・アブデル・アアルさんによれば、開戦前は車でたった15分だった場所にたどり着くのに2時間もかかったという。
「ひどい渋滞です」と、支援物資の毛布とマットレスを受け取るための長い列に並びながら、
車椅子に乗った彼女は語った。
「燃料不足なので車はあまりありません。
みんな歩くか、トラックの荷台に乗るか、ロバが引く車に乗っています」
そう話す28歳のアアルさんの足元は裸足だ。
戦争中、エジプト国境はほとんどのガザ市民に対して固く閉ざされており、ラファの通りは避難民ですし詰めになっている。
ハーン・ユーニスのタクシー運転手である41歳のメフラン・ダバビッシュさんは、状況は「日に日に悪くなっている」と訴える。
「ハーン・ユーニスからラファまでの道は、以前はひどい時でも20〜30分あれば着きました。
今ではラファ市内の短距離を移動するだけでも、1時間半から2時間かかります」
と、ダバビッシュさんはAFPに語った。
過密化はすべての人々に多大な負担を強いており、どんな手段であれ移動は極端に困難な状態だ。
ガザ市民のナイマ・アル・バユミさんは、
入院中の親戚を尋ねるため徒歩4時間の道程の途中だが、もう疲れ果ててしまったと嘆く。
「何度かロバ車に乗りましたが、ひどく揺れるので落ちてしまいました」
と、彼女はAFPに語った。
バユミさんは自宅が砲撃を受け、
双子の赤ちゃんを同時に亡くしたことを涙ながらに語った。
「結婚して13年、ようやく子どもたちを授かったのが開戦1週目だったのです」
そう話す38歳のバユミさんは現在、夫とテントで暮らしている。
路上では、数十人が乗ったトラックの荷台によじ登ろうとする女性に、
人々が手を貸していた』