ロスチャイルド家とシオニストによるイスラエル建国の歴史
その2です。
シェアさせてもらった本からの抜粋です。
『ロスチャイルド家と彼らの手先が占拠しようとした土地には、当時はアラブ人(パレスチナ人)が暮らしていた。
アラブ人は権力の座から ―― そしてその結果として故郷からも ―― 追われた。
ハガナ、イルグン、シュテルン・ギャング(レヒ)といったシオニストのテロ組織は、
アラブ人や同胞のユダヤ人、
さらには国際連盟とヴェルサイユ講和会議から委任されたイギリスのパレスチナ統治政府をも標的に、
爆破テロや暗殺を行なった。
当時の「パレスチナ」は現在のイスラエル、ヨルダン、ヨルダン川西岸、そしてガザ地区を合わせた地域で、かつてはトルコのオスマン帝国に属していた土地だった。
シオニストのテロ活動によって一九四八年にユダヤ人国家が強制され、少なくとも七五万人のアラブ人が自分の土地を追われた。
シオニストのテロ組織を率いていたのはメナヘム・ベギン、イツハク・シャミル、アリエル・シャロンといった面々だった。
全員がのちにイスラエルの首相となり、
図々しくもアラブ人のテロを批判するようになる。
「シュテルン・ギャング」は最初の指揮官アブラハム・シュテルンの名を取ってイギリス人が名づけたもので、
シュテルンは、のちに自身の組織イルグン・ツヴァイ・レウミ・ベ・イスラエル(イスラエル国家軍事機構)を結成した。
あるインターネット上の記事は、その理由についてこう記している。
・・・シュテルンは第二次世界大戦について、
ユダヤ人大衆はイギリスを支援するのではなく、戦うことに努力を集中するべきだと信じていた。
あの強引なやり方は、彼らが目的を果たすうえで効果的に働いた。
シュテルンは「ユダヤ人の敵」(=イギリス)と「ユダヤ人嫌い」(=ナチ)区別し、
前者は打ち破るべきもの、
後者は無害化すればよいものと考えた。
そこで彼はナチ当局と接触を図ってドイツとの同盟を提案し、
見返りにヨーロッパのユダヤ人をパレスチナに送り、ユダヤ人国家建設に参加させるよう求めたのだった。
これこそ操作者どもがずっと目ざしてきたものだった。
そのために、彼らは全体としてのユダヤ人を家畜として扱い、目的のために自由に利用してきたのだ。
のちの首相メナハム・ベギンが率いたイルグンは、一九四六年に、
イギリスが司令部を置いていたエルサレムのキング・デーヴィッド・ホテルを爆破した。
この事件でイギリス人、アラブ人、ユダヤ人合せて九一人が死亡したほか、多くの負傷者がでた。
イスラエルのテロリズム
1946年7月2日
エルサレムのキング・ダビデ・ホテルが爆破され、九一人が死亡した。
この爆破とデイル・ヤーシンの大虐殺を計画したのは、のちにノーベル平和賞を受賞するメナケム・ベギンその人である。
イスラエル首相イツハク・シャミルはかつて、ユダヤ人のテロ組織イルグーンのメンバーだった ――
イルグーンを統率していたのもベギンである。
シャミルはやがて、より過激で多くの蛮行で知られるステルン団に移った。
これはテロリストによる一連の残虐行為や暗殺事件のほんの一例にすぎず、
イスラエルはそうした結果として建国されたのである。
ワールド・ソーシャリスト・ウェブサイトのある記事は、シャロンの首相在任中に、次のように指摘していた。
アリエル・シャロンとその仲間は、偽善者の集まりだとか政治的記憶喪失症だとかいう単純なレベルではない。
さらに問題なのは、
メナハム・ベギンの率いたイルグン、シュテルンのグループ、そしてその後継組織であるレヒが、
リクードの前身であるヘルート党や極右政党のモレデット党を結成し、今ではシャロン政権の主要な連立相手となっていることだ。
つまり、今日のイスラエルを動かしている元軍事幹部、国粋主義者、宗教的保守派の石頭といった連中は、
すべてテロリストの政治的後継者であり、かつてはファシストと密接な関係を持っていたのだ。
当時のパレスチナ、エジプト、イラクのアラブ人は、ドイツと同盟を結んでイギリス帝国主義を追放しようとしたが、
この点において彼らはそうした一部のアラブ民族主義者と変らない。
第二次世界大戦のこうした同盟は、シオニスト運動の各派閥間で事実上の内戦を引き起こしたのである。
イスラエル陸軍は、
街を破壊する戦車に石を投げただけで、
わずか一二歳の子供を「犯罪行為」と称して逮捕する。
子どもは成人用の軍用刑務所に収監され、軍事裁判所で「裁かれる」。
どれも明確な国際法違反だが、イスラエルにとっては自らが法律だ。
イスラエルでは、ヨーロッパまたはアメリカから来た白人のアシュケナジーが特権ピラミッドの頂点に立つよう、法律で決められている。
その下にくるのがセファラディーで、これはミズラヒム(「東の人」)とも呼ばれる。
彼らはアラブ諸国の出身で、実際に中東との歴史的関係を持っている。
セファラディーは一四九二年にスペインから追放された「ユダヤ人」の子孫にあたる人々で、
アラブ人たちとともに何百年、場合によっては何千年も平和に暮らしてきた。
そこへ、ずっとあとの二十世紀の中頃になって、
シオニズムというロスチャイルドが掲げる政治的スローガンの下、おびただしい数のアシュケナジーがヨーロッパからやって来たのである。
ラビ・アーロン・コーエンは、反シオニスト組織ネトゥレイ・カルタの声明で、
イスラム教徒とユダヤ人のつながりは古代にまで遡ると述べている。
「両者の関係は友好的なものがほとんどで、互恵的なものだった」
「歴史的に見れば、ユダヤ人がヨーロッパを追われ、
各地のイスラム教国で庇護を受ける場合がほとんどだ。
我々はイスラム教徒やアラブ人に対し、ひたすら親愛と尊敬の念を抱くのみである」
セファラディーは鉄柵で囲われた収容所に閉じ込められた。
アシュケナジーの役人は、
彼らの「アラブ的な」ものを除去しようと、自分たちに「発音できない」アラブ名を「ユダヤ人らしい」名前に変えさせようとした。
ほとんどの者がひどい汚れの中、病気に苦しみながら、一日一〇~一二時間も働かされた。
死亡率は高かったが、あるシオニスト当局者は「よくあること」だとコメントしている。
なかでもイエメンに住んでいたユダヤ人は驚くほどの差別に遭った。
多くは意思に反してイスラエルへ送られ、粗末な収容所に集められた。
赤ん坊が母親から盗まれ、養子としてアシュケナジーの家族に与えられた。
医者、看護師、福祉担当者らは結託して、六〇〇人の赤ん坊を盗んだという。
彼らは両親には赤ん坊は死んだと嘘を言い、
子どものないアシュケナジー夫妻に赤ん坊を渡していた。
一九九〇年代の初めには、こうした離散家族を再会させようという運動が起こり、注目を集めた。
イラク系ユダヤのイスラエル人で、マンハッタンのニューヨーク市立大学に勤めるエラ・ハビバ・ショハット教授は、自身がイスラエルで受けた教育について次のように語っている。
学校でアラビア語を話すことはタブーで、
教師が私たちを咎めるときは、いつも「このモロッコ人」「このイラク人」という言葉を使った。
中東出身のユダヤ人は中東らしさを捨てるよう求められたため、
私たちは自分たちの歴史と文化を知らないまま育った。
しかし誰よりも悲惨だったのはパレスチナ出身のユダヤ人だ。
彼らは教科書でアラブの歴史を読むことさえできなかった』