情報や記憶のエネルギー場と水 | みなるんのブログ

情報や記憶のエネルギー場と水

 

 

シェアさせてもらった動画から、文字お越ししたかった部分の抜粋です。

『― トム・カウマン医師

1859年にルドルフ・ヴィルヒョーが、

(独・医師、病理学者、先史学者、生物学者、政治家)

「全ての生物は細胞で出来ている」と言いました。

「顕微鏡でタマネギの細胞の画像を見た」ことがきっかけ、と言われています。

それ以降、私たちは化学的な存在になったわけです。

つまり、ヴィルヒョーの発言以後、生命に対する解釈が問われ、化学物質の不規則な相互作用をもとにした、生命現象の説明に焦点が当てられるようになったのです。

これも全て同時期(18501900)の出来事ですよね。

これに関連して、私がこれまで色々と調べてきて、細胞と考えられてきたものは実際には細胞ではなかったことや、リボソームは存在しないこと、また、更に掘り下げると、生体分子まで実は無かったことが分かったのです。

つまり、私たちは電磁波と密接にかかわる存在であり、

化学物質により、体を操作するなど有り得ないことです。』

 

 

 

 

 

 

 

シェアさせてもらった記事からの抜粋です。

『オーラは、私たちの周りに存在する目には見えないエネルギーで

電磁場、波動、光といった呼び方をすることもあります。

エーテル体はエネルギーの鋳型と言われます。肉体に一番近い周波数を持ちます。

多くの病気の発症は、まずはエーテル体のレベルで発生し、そのあとに肉体の病気として現れると考えられています。

 

エーテル体は様々なところで科学的な検証が試されています。

有名なものがキルリアン写真です。

高周波・高電圧・低電流の電場下で生物を撮影する方法です。

病気の人を観測すると、電磁場に大きな変化を生じさせていることが分かりました。

そこから病気は肉体の不調であると同時に、エーテル体にも不調があるという考え方がより説得力を持つようになりました。

 

神経解剖学者のハロルド・サクストン・バー氏は、

サンショウオの実験で、体の周りに、体とほぼ同じ形で電磁場(ここでいうエーテル体)が存在することを証明しました。

また、その電磁波には、脳と脊髄を通る一本の電気的な軸を持っていることもわかりました。

そして、その電磁場は、未授精の時期から存在していることもわかりました。

このことは、肉体より先にエーテル体が存在していている可能性をもたらします。

 

中医学の観点からすると、経穴を通じてオーラと肉体は繋がっています。

オーラという高次元のエネルギーが、チャクラや経穴を通じて体内に入り、ホルモンといった、肉体で働ける物質に変換されていきます。

私たちの感情や精神が、オーラというエネルギーに影響し、またそれが肉体にも影響するという関係性があると考えられます。』

 

 

 

 


 

シェアさせてもらった記事からの抜粋です。

 

 

 

「肉体は老いる」という意識を左脳に持つと、

サハスラーラ(頭頂)チャクラは、脳下垂体から「死に向かうホルモン」を作り始めます。

他のチャクラもそれに伴って変わり始めるのです。

 

ところが意識を変え、

「肉体は老いない」という意識を右脳に刷り込むと、

サハスラーラ(頭頂)チャクラは 脳下垂体から「生命ホルモン」を作り始めます。

他のチャクラも変わり始め、内分泌の働きが再生へと向かい始めるのです。

脳下垂体が「生命ホルモン」を作り始めると、

サハスラーラ(頭頂)チャクラ全体が開いて、そこに光が注がれ、人は「生に向かうホルモン」を作り始めます。

生命に向かうメンタル波動がどんどん出るようになり、心が綺麗になり波動値が高まっていくのです。

アセチルコリンという波動値の高いホルモンが産出され、アナハタ(心臓)チャクラが開きます。

すると、心の思いによって波動値がどんどん高まり、生命エネルギーが高まり、人はどんどん若返ることができるのです。

 

人は宇宙エネルギー意識で生きなくてはなりません。

意識で宇宙エネルギーを積極的に使うようにする鍵は呼吸法にあります。

深い呼吸によって脳内にアムリタというホルモンの分泌が行われ、その他の脳内麻薬物質用ホルモンも産出されて、

顕在意識が抑制され、潜在意識が浮上し始めます。

呼吸によって霊的磁力が高まり、体中に行き渡ると、背骨の根底から頭頂部に掛けて、

磁力と反対の電磁エネルギーが上昇するようになる、といわれるのです。

瞑想と呼吸によって、人々は不思議な力を開くことが出来るのです。

 

西尾仁さん

Facebookより抜粋』

 

 

 

 

 

 

シェアさせてもらった記事からの抜粋です。

『潜在意識とは、

自覚することのない意識、無意識のまま心や行動などに強く影響を与える意識のことをいいます。

これは、フロイトが考えた言葉と言われていますね。

 

意識全体を水にたとえることがあります。

湖を想像してみてください。

風が吹くと、湖の表面では波が立ちます。

氷点下になり凍りつくほど寒くなると、湖の表面は氷で覆われます。

しかし、湖の底の方にある水は、表面での変化には影響されることなく留まっています。

湖は大きなひとつの水の貯蔵庫で、表面も深い底も分けられるものではありません。

表面は外の影響を強く受けますが、

その影響が底まで伝わるには時間がかかるし、瞬間的に影響されることはないかもしれません。

しかし、湖の底には、表面で起きた影響が絶えず浸透していきます。

ゆっくりと、確実に。

そのため、何かの影響で水質が変れば、それは確実にその湖全体に及んでいくのです。

仮に地下水が湧き出て、湖の底から水質の違った水が混ざってきたとしても、

やはりその影響は湖全体に及んでいきます。

 

人の頭や心の中は、湖と同じく、常に表面は外界の影響で波立ちうねっています。

様々な影響に一喜一憂するのです。

 

湖では、時に風に乗って落ち葉が入ってくるかもしれません。

様々な要素が表面に落ち、時間をかけてゆっくりと底に落ちていくのです。

 

その中には毒に匹敵する様なものもあるでしょう。

ひとたび水質が濁ってしまったり、必要のない異物が入り込んでしまったら、

水質をきれいにしたり、異物を取り除いたりすることは容易ではありません。

相当の手間がかかるのです。

 

人が外界から受ける影響もまた、同じ様なもの。

その時々の一喜一憂は、

消えることなく、底の方、すなわち潜在意識に沈んでいくのです。

言い換えれば、人の経験や行動、思いのすべてが、潜在意識の中にあるのです。

底に沈んだ落ち葉が、その形を残すことはなくても、その成分は水の中や底にある土や泥の中に養分として残っているのです。

私たちの意識は、湖にたとえると、外界の影響を受け常に動いている部分と同じです。

そして潜在意識は、湖の底に当たります。

外界からの影響は、常に私たちの意識に影響を与えています。

朝目覚めた瞬間から。

家族の声、お天気、聞こえてくる音、電車のホーム、人の波、電車の中刷りなど、

多くのことに影響を受けるのです。

入っては沈み、入っては沈みを繰り返します。

そして時に、必要な物は、水の循環の様に表面に現れ、消えていくのです。』

 

 

 

 

 

 

シェアさせてもらった記事からの抜粋です。

『よく顕在意識と潜在意識の図を描く時に、海の氷山で例えたりしますが、

(自覚できる顕在意識は、海面の上に見えている氷山の一角で、実はその海面下にその何倍もがあり、それが潜在意識だという例えです)

この例えが海であるというのも偶然ではないでしょう。

私はいつも雨の日や水を飲む時などに、水を見たり、水に意識を向けたりすると、水って本当に不思議な存在だなぁと感じるのですが、

水の一滴は、全ての水と繋がっていて、全ての情報を共有しています。

全ての情報というのは、世界中の人や世界で起こっていることの全て、一滴の水の旅の全てということです。

でも水の一滴は水であったり、雲や水蒸気になったり、氷になったりもでき、液体、気体、個体を自在に姿を変えます。

水自身が自分で主張をして、私はずっと雨や雲でいたいとか、ずっと海や川でいるとか、人の血液になろうというようなことは意図しておらず、

様々に姿を変えながら、水としての役目を色んな風に果たしながら、この地球を旅しています。

そんな水に瞑想で意識を向けてみると、水という一つの存在としての意識があり、それは全ての水が繋がっている一つの意識で、この雨粒の一滴に意識を向けてつながると、全ての水とつながります。

水には肉体や心臓がなく、植物のような成長もないので、水は生き物ではない、ただの水だ、と考えるのが一般的ですが、

でも私の感覚では、水には意識があり、命あるものだと感じます。

同じように、石や土などにも意識があり、彼らの意識はエゴがないので、「私はこうありたい!」など主張はなく、

植物以上に微細な意識で、クリアで、個々の意識ではなく、集合意識で全てと繋がって存在しています。

 

先ほど、水の一滴は全ての水と繋がっていて、水の意識に世界や宇宙の全てがあると書きましたが、

これは私たちの魂と同じことだと思います。

私たちは元々は一つで、それをスピリチュアルではワンネスと言ったりしますが、

私たちの魂もまさに水と同じで、

私たちの個人個人は大きな海の水の一滴で、その一滴が雨になったり、川になったり、動物の体液になったり、植物を育んだりしながら、長い旅をするように、私たちもそれぞれに人生の旅をします。

ただ違うのは、私たちには自我(エゴ)があり、個という意識があります。

自我を持った個の意識で旅をするのがこの現実世界です。

でも魂の長い長い旅の行き着く先は、個の意識を何度も生き、学んで、いつかは一つに戻るのです。

一滴の水に意識を向けると、水全体の意識に繋がるように、

一人の人の魂に意識を向けると、そのずっと奥深くには宇宙の根源、愛があります。

もちろんそのレベルでは水も人も全てが一つです。

 

水から学ぶこと、気づくことは無限にあります。』

 

 

 

 

 

 

シェアさせてもらった本からの抜粋です。

『粒子の形態は、その波(周波数領域)を、立体的に見える(が実際は立体ではない)ホログラムの像に脳が解読したものである。

波の形態には、信じられないほど大量の情報(潜在的な結果)を符号化することが可能であり、そうした潜在的な現実をホログラムの現実(物質的な体験)として解読(観察)するのは、観察者である。

波の形態が潜在的な現実であり、

粒子(ホログラム)の形態が、解読・体験された現実である。

どの潜在的現実を我々が選択するかは、我々の状態、認識、思い込みにかかっている。

この現実は、解読されたときに、観察を通じて(関心を合わせることで)、「物質」の形態として存在するのみである。

原子や素粒子は、波の形態が「物質」となって現れたものである。

波か粒子かという問題ではなく、同じものの異なる表現である。

人間の肉体は、波形の構築物(符号化された情報)であると同時に、観察によって物質へと解読されいているならば、ホログラム(物質)でもある。

このため我々には、肉体とともに、オーラというエネルギー場がある。

肉体とオーラ場は、同じ情報の二つの形態であり、一体となって機能する。

 

最先端の科学者の一部は、

情報は脳の中ではなく、脳の「外側」の干渉縞(波形)として保存されているのではないかと考えている。その通りだ。

我々の情報源は、オーラ場という振動の波の構築物であり、記憶の場所もそこにある。

肉体は、中枢神経システム、チャクラの渦、内分泌腺(松果体、下垂体など)を通じて、オーラと高次元な意識に接続されている。

波形(振動)レベルでは、ゆっくりとした振動であるほど、脳が解読したときに高密度で固く思える。

振動が速いほど、固くないように感じられる。

我々の感覚が解読できるスピードを超えて共振していると、人間の視界からは「消滅」するが、本当に消えたわけではない。

人間の肉体コンピュータがアクセス可能な周波数領域を去っただけである。』

 

 
 
 



 

シェアさせてもらった動画から、文字お越ししたかった部分の抜粋です。

『あらゆる営みはエネルギーの一つの形であり、エネルギーは消滅させることができません。

 

そうであれば、私たちの祖先の体験はすべて、私たちには見えないエネルギー場に今でも存在していると考えることができる。

100年ほど前までは、エーテルは、物理学の世界ではまだ標準的な概念であり、目に見えない空間の性質を説明するものであった。

そして、例え今日過去の記憶がほとんど失われていたとしても、その経験は消えてしまったわけではなく、ただ埋もれているだけなのだ。

つまり私たちは過去と再び繋がることが可能なはずである。

ベールを剥ぎ記憶を蘇らせることができれば...

 

集団的記憶を呼び起こすには、一定の集団的努力が必要であり、個人の力だけでは「記憶喪失」の状態を打ち破ることはできない。』

 

 

 

 

 

〖みなるんの独り言〗

例えば、もともと人類は

すべての人が、心がわかりあえる存在だったとして

 

それは、テレパシーのようなものでつながっているからこそ、

決して嘘もつけず、あたりまえに幸せな世界だったとして

 

でも、ある日「誰かが」もしくは「みんなが」、

あたりまえに幸せであることの大切さを知りたくなって、

その瞬間テレパシーのようなものが消えてしまって、そして

善や悪という、平等や不平等という、幸せや不幸という

あたりまえに幸せではない世界を無意識に求めたとして

 

それはむしろ、偶然的な事故で平和を失ったまま今に至るというよりも、

あたりまえに幸せであることの大切さを学ぶための試練のための混沌を

ずっと学び続けているかのように

 

もし、そうであったとするならば、

 

例えその試練に疲れ、大切なものを見失いそうになった時も、

その忘却の彼方にあるはずの意識は

無意識に問いかけてくれるかもしれない

 

「あたりまえに幸せだった時、どんな顔をしていた?」と

 

決して義務ではなく

むしろ自由な意志があるからこそ、

例えテレパシーはなくても

それでも誰かと心が通じ合うことが出来る時、

人は心から笑顔になって

心から愛を分かち合うことができるのでは?