パレスチナを忘れないでいてくれる者へ | みなるんのブログ

パレスチナを忘れないでいてくれる者へ

パレスチナ大虐殺

マイケル・ホフマン+モーシェ・リーバーマン

 

 

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シェアさせてもらった本からの抜粋です。

『アメリカの公式発表や公式メディアは、イスラエルによるパレスチナ人への攻撃を、ふつう一度しか伝えない ─ 多くの場合は控えめに、そしてときには重要箇所を省いて。もちろんイスラエルによる残虐で無差別な攻撃の犠牲者を悼む記念日などは、1日もない。たとえば一九八二年八月には、アリエル・シャロンの命令によってイスラエル空軍レバノンの首都ベイルート爆撃し、市民二万人を殺した。さかのぼって、一九四八年にはデイール・ヤシン大虐殺が、一九九四年にはヘブロンのモスクで四〇人のアラブ人がバルーク・ゴールドスタインによって殺されるという事件があった。だがこれらの虐殺行為はどれも忘れられている。

アラブ人が流した血は思い出す価値もないが、ユダヤ人の犠牲は永遠に語り継ごうというのだ。

記憶は武器にも警告にもなる。ナチスがユダヤ人にしたことの記憶は、それが真実であれ想像であれ、

イスラエルがナチスから学んだ手法をパレスチナ人に対して使うのを正当化する武器となった。

しかし記憶は葬られてはならない。アメリカインディアンに対しておこなわれたことの記憶は、今彼らが多少なりとも尊重されていることの土台となっている。パレスチナ人を人間と見て、アメリカ人の税金と武器が彼らに何をしてきたかを記憶にとどめておくことは、罪のないパレスチナ人ばかりではなく、同じように無視されている世界中の人々の命を救うことになるだろう。

 

〈過去一〇〇年のパレスチナ人に対するシオニズムの暴虐は、多くのイスラエル人のなかでももはや議論の余地はない。シオニストたちは、大多数のパレスチナ人その土地と家から追い出し彼らの財産を没収してユダヤ人のために使い、難民の帰還妨害し、一九四八年から六六年までは、残ったパレスチナ人に対して軍事力を使った人種隔離政策アパルトヘイト)を強行した。〉 ─ 『ニュー・ポリティクス』第三二号「シオニズムとユダヤ人至上主義について」二〇〇二年冬

 

中東情勢の権威ウォルター・ラカーは、二〇〇二年三月二七日付『ウォールストリート・ジャーナル』にこう書いた。

〈パレスチナ人は指導者たちからイスラエルへの帰還なくしては安定(平和)などあり得ないと教え込まれてきた。しかし戻るべき家も村ももはや存在しない。どのみちその国はもう人口過密状態だ〉

ラカーはイスラエルが人口過密だからという理由何十万というパレスチナ人先祖代々の土地から追い出そうとしている。だが彼は、このシオニストの帝国における矛盾については一言も触れていない。つまり「人口過密」のイスラエルには、常にロシアやニューヨークから何十万というユダヤ人を受け入れる余裕があるのだ。

 

 

世界はそのとき奇妙な場面を目撃した。アメリカの国家予算からだけでも年間五億ドルの援助を受けている

国の指導者が、

ヨルダン川西岸の占領地域から撤退するよう懇願するブッシュを拒絶したのだ。ブッシュを無視してシャロン新たに軍需品発注し ─ そのほとんどをアメリカに ─ パレスチナの町難民キャンプ、そしてパレスチナ人国家としてのすべての象徴をさらに激しく銃撃し、ブルドーザーで破壊していった。

 

ユダヤ人が乗ったバスがパレスチナ人に爆破されれば、その生々しい映像が生存者のインタビューとともにたちまち世界中に発信される。だがイスラエル軍によるパレスチナ人大虐殺は「閉鎖軍事区域」のベールの中で秘密裡におこなわれる。

 

ユダヤ人に対する戦争犯罪は伝説となり、イスラエル国家存続の支柱となっている。そしてそれは、パレスチナ人の土地を奪い取り、

その浅黒い肌の市民を「狭量な宗教の犠牲者」にする巧妙な道具ともなっている。ヨーロッパからは戦争犯罪の賠償金として何百億ドルもの資金がイスラエル政府とその機関に支払われてきた ─ これからも支払われるだろう。ところがイスラエル政府は、自分たちは国際的な訴追もパレスチナ人に対する賠償も免除されるべきだと考える。二〇〇二年四月二八日、AP通信はシモン・ペレス外相の言葉を伝えた。「イスラエルは被告人席には座らない。イスラエルは常に告訴する側だ」。

アメリカで、たとえ少数派のアフリカ系住民が白人の町で自爆テロを起こしても、ロサンゼルスの黒人街に戦車や武装ヘリコプター、D9ブルドーザーやF16戦闘機を出して襲撃したら、だれがそれを支持するだろう。アメリカ軍が一部の黒人テロリストのために、集団懲罰として黒人街を爆撃し、町を瓦礫の荒野にし、家族を残骸物の下敷きにしたら、ほとんどのアメリカ人がそれをジェノサイドと呼び、反発の声をあげるだろう。

だがアメリカのメディアは、

イスラエルがパレスチナ人に集団懲罰を加えるのを極度にねじ曲げて伝えてきた。そして連邦議会やホワイトハウスは、ジュネーブ条約や第二次世界大戦後みずからが定めた戦争犯罪の定義を無視して、繰り返しイスラエルを支持してきた。

 

 

一九七九年から一九八九年にかけて、わたしは『ヴィレッジヴォイス』紙などアメリカの刊行物にイスラエルやヨルダン川西岸地域のレポートを書いていた。その期間、イスラエルパレスチナへの入植急速に推し進め、その土地の水を奪っていった。

わたしが取材したパレスチナの村人たちは、みな入植者の自警団苦しめられていた。自警団は村々で「アラブ人に死を!」と叫びながらパレスチナ人地所作物を手あたり次第に荒らしていった。通りでは入植者たちが日常的に村人を侮辱し、ときには殴り、ときには殺した。パレスチナ人のいくつかの町は、住民のだれかおこなったとされる行為(ほとんどは投石への集団懲罰として一日二三時間外出禁止措置が取られ、それは一週間も続いた。(パレスチナ人の自爆テロは一九九〇年代オスロ合意後の現象だ。その合意は事実上パレスチナを占領地のなかの半自治区とするもので、パレスチナの町や村は入植地に取り囲まれることとなった。事実、オスロ合意後、入植地の人口二倍に増えた)。

集団懲罰として村の家々ダイナマイトで爆破されたりブルドーザーで押しつぶされたりするのは、雨が降るより頻繁だった。パレスチナ人はよく、破壊された家の前でインタビューに応えてくれた。イスラエル軍拘束され刑務所虐待拷問を受けたという人々の話を聞くこともできた(一九八〇年代からいくつかの人権団体がその実態を報告している。『フィナンシャル・タイムズ』によれば、同じことが今でもラマララファエル強制収容所で続いている)。

アパルトヘイトは至るところに存在する。車のナンバープレートは、パレスチナ人は青、イスラエル人は黄色で、おびただしい数の検問所でパレスチナ人とイスラエル人および外国人とを区別する。ユダヤ人の過激派は、パレスチナ人の町長が乗る爆弾を仕掛ける。それによって二人の町長亡くなった

一九六八年パレスチナ人の土地にキルヤット・アルバ入植地を建設したのは、アリエル・シャロンでもリクード党でもない。パレスチナの土地永久植民地をつくり、それを拡大していこうというのは、一九六七年以降すべての政権の方針だった。

個人的なことを書けば、わたしはたまたまユダヤ人として生まれた。第二次世界大戦後に子供時代を送った年代である。ナチスがワルシャワのゲットーでおこなったのと同じ罪を今イスラエルが犯しているのを見て、この胸は悲しみと怒りでいっぱいだ。一方でイスラエルは、ヨーロッパのユダヤ人に対するナチスの罪を言いたてて、みずからのあからさまな目的を覆い隠そうとしている。その目的とは、パレスチナ人経済社会文化活動閉塞させ生活に関するすべてのインフラ施設除去することだ〉 ─ エレン・カンタロー、二〇〇二年四月

 

〈わたしはユダヤ人で、一九五〇年代初めハイファで生まれた。わたしは「ナクバ」という言葉を聞いたことはなかったし、

その意味も知らなかった(それはアラブ人の言葉で「大惨事」という意味だが、イスラエルのパレスチナ略取を指している)。

クラスの三人のパレスチナ人を含めてみんなでハイファとその周辺の案内付きツアーに参加したときだった。そのころはまだ町の古い一角にアラブ人街が残っていて、美しい建物が並び、一九四八年にイスラエル人によって破壊された屋根付き市場のなごりが見えた。

「ナクバ」とその平和に向けた今日的意義については、どのメディアも文化機関も議論しようとはしなかった。そんななかで、わたしはタントゥラ事件に関わった。ハイファのわたしの大学で、大学院生の一人がそれまで知らていなかった大虐殺を暴露した。それは一九四八年の戦争中にパレスチナ人の村タントゥラでイスラエル軍がおこなった大虐殺で、歴史上もっとも大規模な殺戳の一つだった。この大学院生は二〇〇〇年一二月、(イスラエル人によって)誹謗中傷の罪で告訴された。彼はその後、この大虐殺に関するイスラエルの罪をさらに暴きたてたため、二〇〇一年一一月、大学から追放処分を受けた。のちに裁判所も大学と同じ見解を示した。

五〇年以上の否定のすえ、二〇〇二年の半ばにきてようやく、イスラエル人は一九四八年のパレスチナ人に対する殺戮と破壊を否定できなくなったのだ。しかしこのわずかな前進に対して、二つの反発が起こった。こうした反発が起こるのは、アルアクサにおけるインティファーダ(民族蜂起)のあと公式化されたものである。

第一の反発は、シャロンが政権を握るイスラエル政府が教育省を通して示したものである。教育省は、すべての教科書や学校の授業から「ナクバに関する記述をどんな小さなものも削除するよう指示を出した。同じ指示は、公共放送の責任者たちにも伝えられた。

第二の反発は、より不穏で広範な影響力をもつものだ。イスラエルの政治家、ジャーナリスト、学者の多くが

その出来事を、過去のこととしても将来への処方としてもなんとか正当化したいと思っている。

一九四八年パレスチナのほぼ八〇パーセントを略取したとき、イスラエルはそのほぼ全域に入植し、土着のパレスチナ人に対する民族浄化をおこなった。

首相が、残りの二〇パーセントも力によって手に入れようと決めている。彼は ─ 歴代の労働党やリクード党の首相たちと同じように ─ その手段として植民地化が最良の方法だと考えている。彼はそのために、パレスチナ人の独立のためのインフラ施設破壊した〉 ─ イラン・パッペ教授

付記:パッペ教授はハイファ大学でもっとも学識豊かな歴史家の一人である。しかしハイファ大学学長は最近、パッペ教授の大学からの除名を求め、教授は除名される見通しだ。

 

 

一九四八年四月住民が残る最後のパレスチナ人の村、エルサレム西部のデイル・ヤーシンが、暴力組織イルグーンステルンの攻撃を受けた。一九六一年ローク中尉(のちのイスラエル軍事歴史局局長)によって書かれたイスラエルの公式記録には、それらイスラエルの武装組織が「何百人もの村人虐殺し、残った人々を捕らえて

エルサレムの通りを引きずりまわした」様子が描かれている。デイル・ヤーシンは、イスラエルの地図から消えてしまった二五〇以上の村ほんの一つでしかない。

この大虐殺のニュースが、それまで自分の家や土地を離れずにいたパレスチナ人たちにどんな影響を及ぼしたかは、想像に難しくない。

イスラエルの戦争の英雄イガール・アロンはアラブ人除去を加速させるため、(アラブ人の)村や町への嫌がらせを命令した。一九八〇年代後半から、イスラエルの国家記録保管所では、機密扱いを解かれた文書の閲覧が歴史家たちに許されるようになっていたが、公開された文書は、シオニストの歴史が忘却と神話と嘘で固めたものだということを教えてくれる。それらを読めば、イスラエルがパレスチナ人を駆逐できた最大の要因は、多くのイスラエル人が直接パレスチナ人を追い出したことだとわかる。

一九四八年一〇月二一日、イスラエル政府は、イスラエルの国境内に残っているパレスチナ人の権利と地位について、長く不和の原因となる決定をした。すなわち、アラブ人残留地域軍事統治区域とし、住民出入りを禁じ住民を自由に家から立ち退かせることができるようにしたのである。

 

194849

イルグーンステルンの合同組織がデイル・ヤーシン村アラブ人二六〇人殺害した。殺されたのはほとんどが女性子供だった。

デイル・ヤーシンの大虐殺とそのほかのイスラエル軍の作戦によって一〇万人のキリスト教徒が難民になったということも、アメリカ人は知らされていないのだ。

デイル・ヤーシンを訪れた赤十字と国連のスタッフたちによれば、テロ集団はまず家々に火を放ち、炎から逃げようと外に出てきた人々を射殺した。パレスチナ国際赤十字の代表ジャック・ド・レイニエはその夜、車で村に入り、イルグーン団の分遣隊に出会った。彼はそのときのことを翌日報告書にこう書いている。「彼らはみな若く、子供と言えるような者もいた。男も女も完全に武装していて、リボルバー、マシンガン、手榴弾、ナイフなどを持っていた。」

 

1953101415

アリエル・シャロンの指揮のもと、イスラエル部隊非武装地帯アラブ人の村キブヤ襲撃した。彼らは四二軒の家を爆撃し、中にいた六〇人以上の住民死亡させた。その陰惨なやり方は国際的に非難され、アメリカも国連の非難決議に加わった。アメリカは制裁として、初めて ─ 最後でもある ─ イスラエルへの資金援助を凍結した。

 

1956

イスラエル軍の部隊パレスチナ人の村カフル・カシムで残虐なテロ行為をおこない、四七人のパレスチナ人が冷酷に射殺された

西側メディアに注目されることはなかった。イスラエルの裁判所は八人の兵士を有罪としたが、彼らはみな二年以内に刑期を終えて釈放された。一時間に四三人のアラブ人を殺したとされる兵士は三年以内に刑を終え、ラムレの市当局に採用され「アラブ人問題担当官」となった。

 

1975年-1980

イスラエルの諜報機関モサドがテロ行為によって一躍名を馳せた。彼らはロンドン、ローマ、パリ、ブリュッセルで、パレスチナ人を含むアラブ人の外交官、科学者、ジャーナリストに対する多くの殺害に関与した。著名なパレスチナ人ジャーナリスト、ガッサン・カナファーニや、エジプト人科学者アル・マシャド博士もその犠牲となった。

 

1973221

イスラエルはテロリスト部隊をレバノン北部の都市トリポリに上陸させた。彼らは二つのパレスチナ難民キャンプを襲い、建物ダイナマイトで爆破した。なかに住人がいる家も爆破した。この攻撃で、パレスチナ人三五人死亡し、ほぼ同数の負傷者が出た。

 

19826

イスラエル軍はレバノンに侵攻した。メナケム・ベギンが政権を取った二週間後、新政府はレバノンのパレスチナ人一掃に向けて攻撃を開始したのである。この侵攻によって、難民キャンプやレバノンの多くの町や村破壊された。イスラエルの戦闘機はレバノン南部とベイルートのパレスチナ人居住区に、合わせて八回の爆撃をおこない、一〇〇〇人近くを死亡させ多くの負傷者を出した。

 

19828

国防相アリエル・シャロンがベイルート市街への爆撃を強化した。彼はその夏「圧力をかける作戦」としてその爆撃を繰り返し、学校病院養護施設集合住宅などの建物を故意に灰にしていった。

イスラエルによるその年のホロコーストで、レバノンでは二万人近いアラブ人市民殺された

 

198210

イスラエルはヨルダン川西岸地域の三つのパレスチナ人都市 ─ ナブルスラマラアルベイラ ─ で、民家、車、市庁舎を爆撃した。

 

1989414

ベツレヘム近郊の村ナハリンで、イスラエルの警察官武装したユダヤ人入植者が、非武装のパレスチナ人住民襲い、住民八人死亡し、五〇人以上負傷した。攻撃はイスラム教の神聖なる月ラマダンの前夜におこなわれた。

 

 

イスラエル人のなかで、一〇日間に及ぶ終日の外出禁止令が、子供たちとともに一〇日間監禁されることがどんなものか、理解できる人はごく少数だろう。パレスチナ人は、

家に何日何週間も子供たちとともに閉じ込められ、止むことのない戦車の走行音と、どこかに大きな破壊をもたらす戦闘機の出撃音に怯えていた。

イスラエル人のほとんどは、外出禁止令を経験したことがなく、自分の家から車で一時間以内の場所で約一〇〇万人 ─ ヨルダン川西岸地域の都市に住む約八〇万人と、その周りの村々に住む残りの二〇万人 ─ が厳しい条件のなかで何日間も家に閉じ込められているということを、気に留めてもいないだろう。年に一度の「ゲイ・プライド」のパレードが、例年のような陽気さでテルアビブの街を練り歩いていた金曜日(二〇〇二年六月二八日)、そこから遠くない場所で、パレスチナ人の無実の人々も含めた大勢の抑留者たちが、屈辱的な行進をしていたのである。

「断固たる道作戦(Operastion Determined Path)」の枠組みのなかでヨルダン川西岸地域に課された長い外出禁止措置は、過去のどの外出禁止令より徹底したものだが、イスラエル人の意識にはのぼっていない。メディアはそれについてほとんど報道していないし、その状況に反対の声をあげる者もだれ一人としていない。

 

〈わたしたちが一〇〇万人の人々に課している集団懲罰は、

そこにいるだれもが、さらなる三五年の占領を抵抗せず受け入れようとは思っていないということだ。・・・・・一民族全員外出禁止令を出し、包囲と封鎖によって無期限に監禁するという形での集団懲罰は、道徳に反する方法であり、どのような状況においても許されることではない。

ジェニンでは、外に出た子供が二ヵ所で四人殺された。パレスチナの子供たちのほとんどが、外出禁止令下の静寂のなかで戦車が近づいてくる音を聞き、地面が揺れるのを感じてすぐに逃げる習性がついている。だが彼らはいつもうまく逃げられるわけではない。ジェニンではその翌日も、三人の幼い子供殺された。そのうち二人は兄弟で、自転車に乗っていて戦車の砲撃を受けた。彼らは、ただ禁止令が少しのあいだ解かれたと勘違いして、わずかな時間を外で遊ぼうとしただけだった〉 ─ ギデオン・レヴィー『ハーレツ』二〇〇二年七月一日』