『名古屋 空手物語 ~怪物志願~ 』第76話


《愛知支部黒帯 第一期生から辿る足跡 其の㉔》


今から40年以上前に小室直樹著述の『数学を使わない数学の講義』を読んだ。ひょっとしたら、題名が異なっているカモ知れない。と云うのも此の本は、毎度の事ながら私の家の中を家探ししテも見付からないからダ。
代わりにBOOK OFFデ再購入した2005年版のワック出版から復刻されたハードカバーの同書が家に有る。


『数学を使わない数学の講義』は、40年以上前に読ンだにも拘らズ、1箇所ダケ鮮明な記憶が残っていた。
「何故、ケネディは人類の月面着陸を公約出来たのか」…第二次世界大戦では、完全に首位を独走していた米国だったが、1960年代に入ると宇宙開拓競争でソ連に遅れを取る事となった。
有人ロケットを最初に打ち上げたのは、ガガーリン宇宙飛行士のソ連である。米国のケネディ大統領は、「60年代の終わりまでには、米国人を絶対に月へ送る」と公約した。


当時は既に、宇宙船のニュートン力学の微分方程式に「解」が存在する事は判っていた。後は、どうやって解いていくか…である。米国の科学者達は、其の解をどれダケの予算と年月が有れバ、近似値的にも解決出来るのか、其の目安を1960年代一杯と観たのである。
つまり、数学に於ける計算結果は大事だが、其の問題に「解」が存在するのか否かの方を最優先で見付ける事が最も大切だと云える。
実際、米国は原子爆弾を製造するのに超一流の科学者を多数集め、多大な研究に日数を費やした。そして、広島と長崎で日本人の尊い人命を使って実験し完成させたのである。しかし、米国に技術力では足許にも及ばなかったソ連が直ぐに原爆を製造して仕舞い、今では核保有国は欧米列強に限らズ、亜細亜の小国を含め複数国が存在する。
結局、原爆が製造出来ると判ってからの(「解」が存在する事象)各国は、其れが発明される年月を遥かに短縮して製造を終えて仕舞った。


先程から、何ンの話をしているのか…勿論、空手の話である(爆笑)。
大山倍達総裁が指でコインを曲げたから、我々は5本指立てから2本指立て及び指立ての逆立ち歩行にまで挑戦した。体重が80kg以上有っテ、親指1本(もしくは小指1本)で逆立ち歩行すれバ牛が殴り殺せると信じたから…現実は、5本指立て歩行でスラ酷い突き指状態が続き断念したが(苦笑)。
中村日出夫拳道会総師が垂木折り(斬り)を遣って見せたから、拳道会の師範の中に垂木折りが出来る人が何名も存在する。
倉本成春倉本塾塾長がヤシの実を手刀デ粉砕したから、倉本塾塾生も真似して手刀でヤシの実にヒビを入れる事が出来る。
三浦美幸師範がオープントーナメント全日本空手道選手権大会の試割り演武でバットを折った(保持者二人が膝裏にバットの頭と手持ちの部分を挟み込み、正面から前蹴上げのサッカーキックで粉砕)から、直ぐに皆ンな下段廻し蹴りでバット折りを行う様になった。


盧山初雄極真館館長の言に拠れバ、中村日出夫拳道会総師の垂木折り(斬り)の速度は時速1,200Kmらしい。何か、工学の教授に訊いた処、垂木が斬れる時の甲高い音が相当のスピードらしいのである。
たまたまテレビで『範馬刃牙』のアニメを観ていたら、愚地克巳が獣人ピクルを相手に音速拳デ闘っていた。突っ込み処満載の格闘漫画だか、文句無く面白い(爆笑)。
獣人ピクルは、白亜紀の原人らしいが、此の時代の人類の御先祖様は未だ、イタチの様な小動物の筈ダ(苦笑)。
時速約1,225km/h(秒速約340m/s)の音速拳を駆使した愚地克巳の腕は、骨が剥き出し状態に為って仕舞った。


音速の破壊力は、1トンを超える。人がバットで力一杯叩いても、精々300kgを超えない程度なのに、音速は軽く其の3倍以上の威力を発揮する。
アニメでも譬えられて居るけれど、音速の代表は鞭である。確かに、バットでライオンに向って行ける人間は存在しないが、サーカスの調教師は鞭一本でライオンを堂々と誘導している。
中村日出夫拳道会総師の垂木折り(斬り)の速度が本当に時速1,200Kmだとするなら、プロレスラーも関取も関係無く為って仕舞うダロゥ(流石に彼らでもライオンとタイマンは出来まい)。
しかし、自分の攻撃を音速に近付けて行く為には、壊れないダケの手足の鍛錬や究極の関節の脱力が必要ダ。盧山初雄極真館館長も、最初に垂木折り(斬り)を観せられた時、中村日出夫拳道会総師を物凄い怪力だと考えたらしい。だが、刻を経るに連れ其のパワーは、筋力では無く脱力に拠るスピードだと再認識している。


思い起こしテ観れバ、劇画『空手バカ一代』世代の我々が最初に眼にした実写は、アニメ『空手バカ一代』の中に挟まれる極僅かな当時の極真会本部師範達の映像か、若しくは映画『地上最強の空手』だった。
映像の中で極真ファイター達は、ガンガン身体を鍛え、ハンマーの様な拳デ相手を叩きのめして居た。
しかし、『地上最強の空手 PART2』デ、大山倍達総裁が観せた5人掛けは、「回し打ち」と「倒し込み」である。最初、高校1年生の時に此の映画を観た私は(未だ極真入門前)、大会映像の如き荒々しい攻撃を予測していたのデ、不覚にも アレ!? と感じて仕舞った。
だが、今にしテ想えバ、此れコソ鞭的な攻撃では無いダロゥか。


盧山初雄極真館館長の処女作『生涯の空手道-真の強さを求めて』(スポーツライフ社 1980年10月15日)の中にも、黒崎健時先生のこんな記述が観られる。
黒崎健時先生の大山道場時代の組手は、最初から左手を身体の後ろに大きく持って行き、右手を開いて顔をカバーする変則的なもので、相手の攻撃を身体で受け止め左手の孤拳打ちで仕留めると云う遣り方だったらしい。
背中に回した孤拳デ打ち込むのも又、鞭的な攻撃でしょう。
因みに、大山倍達総裁が観せた「倒し込み」は、カレンバッチ(カレンバッハ)を相手取り何度も大男を引っ繰り返した小兵藤平昭雄先生の使用した技であり、多分「大山倍達総裁」⇒「渡邊一久大山道場初代師範代」⇒「藤平昭雄先生」を経て我々の○○○先生に伝わり、愛知支部○○○道場黎明期の我々へと引き継がれている。


大会デ優勝する事も勿論大切です。デスが、実践重視時代の技をもう一度見直すのは、もっと大切なのでは…大会に於いても見直せる技は沢山有りますネ。
初代全日本王者の山崎照朝先生の防御。此の防御は、攻撃を兼ね備えて居りマス。
『空手に賭けた青春-無心の心』(スポーツライフ社 1980年6月1日)には、座間キャンプの大型外国人相手に竹で編んだ脛のプロテクターを着けさせ、其の蹴りを肘や膝で防ぐ稽古を重ねたと書かれて居りマス。未だレガースなど無かった時代。竹で編んだ脛のプロテクターを着けさせないと、大概、3回蹴った辺りデ外国人の生徒は蹴りを出せなく為ったらしいデス(苦笑)。
私も、ロシア人の生徒と組手をした事が有りマスけれど、レガースを着けさせてもやがて蹴られ無く為ってましたネ。勿論、私は素手素足での肘受け、膝受けでしタけれど・・・・・


山崎照朝先生の映像が観られるのは、全日本の第5回大会デスが、佐藤利和(後に第8回のチャンピオン)選手が山崎照朝先生の肘と膝の防御ダケで戦闘不能にされましタ。
山崎照朝先生は、顔面・金的無しの大会に於いても、顔面と金的防御の「天地上下の構え」や「前羽の構え」をちゃんと取られて居るンですヨ。こう云う所は、今の生徒達にも真似させたいですネ。


第9回チャンピオンの東孝大道塾塾長も、大会で最初に使った相手内股への連続ローキックは鮮明でした。太股の外側は蹴られ慣れている大会の猛者達が、否応無く後退させられてましタから・・・・・
この様に、何十年も前の空手家から学べテ、現在でも活かせる技の数々は御座いマス。最初に其れを実行した人は文句無く偉大デスけれど、続く者達が其れをリスペクトして後の青少年や若人に教えて行く事も大切な事カモ知れません。
空手の先人達が、強くなる多数の「解」を見付けて呉れて居りマス。私も道場デ、鞭の様な攻撃(回し打ち・バックスピン)や肘受け膝受け防御などを生徒達に徹底的に教えて行こうと考えて居りマス。


最初に物事を始める人物を「ファーストペンギン」と呼ぶらしい(笑)…多くのペンギンが居ても、最初に海に飛び込む個体はなかなか顕われない。しかし、一体が覚悟を決めて飛込めバ残りの個体群は次々と続く。



さて、久々に「一般社団法人 国際空手道連盟 極真会館 公認有段者名簿 2019年12月20日現在」の先輩エピソード紹介コーナーです。
前回までは、(坂口)狂犬先輩でしタ。其の時記載した、愛知支部○○○道場の大会パンフレットが見付かりましタ。
「全中部第6回オープントーナメント空手道選手権大会」(平成10年10月25日日曜日 愛知県武道館)デ、一般上級の部の北島文人選手と云う若人が私の印象に強く残って居りマス。


さて、今回からは(高良)沖縄先輩と為りマス。
此の方、先生と同年代デスのデ、(後藤)極道師範代や(内藤)武道塾塾長と同じく会話は沢山有りマスけれど、組手となると思い出は全く御座いません。
しかし、其のエピソードは爆笑モノばかり…デス。


当時、道場では基本稽古が終わった辺りデ、出席名簿を観て白帯から茶帯までの道場生の出欠を確認する作業が有りましタ。
黒帯指導員は、多くて2~4名ぐらいデスのデ、知った顔ばかりを態々確認する事は御座いませんし、名簿の姓名を観れバ誰が黒帯かは当然判りマス。
(高良)沖縄先輩が指導して居た時、出欠確認デ、「(後藤)君、(後藤)君、(後藤)君は居ないのか…出席名簿には記載が有るケドなぁ・・・(後藤)君、(後藤)君!!!」
受付の部屋に座って居た(後藤)極道師範代が堪らズ顔を出しテ、「(高良)、俺の事を呼ンどるンか!!」
ポカンと為った(高良)沖縄先輩が一言、「何ンだ!! (後藤)極道師範代かぁ~」


後に春日井ホンダ2階に○○○道場春日井支部がオープンした時、(大鹿)S級校長と(磯川)コング代表、私の実弟、(高良)沖縄先輩が指導員としテ派遣されましタ。
私も春日井支部には数回しか遊びに行った事が無いのデ、詳細は判りませんけれど、(大鹿)S級校長は未だ競輪選手現役デ、(高良)沖縄先輩は先生と同い年と云う事も有っテ、指導の大半は二十歳前半の(磯川)コング代表と同年の実弟が任されたと思いマス。


本当に当時の南道場と春日井道場は場所が判り難くてネ…特に夜なので一層判り辛い。後輩の(末永)ダンベル君は、指導員が居ない時に昭和(川奈)道場から走らされ、春日井道場の稽古が終了する頃、昭和道場に電話して来テ、「全然、春日井道場の場所が判りません」と涙ぐんで居りましたナ。


(高良)沖縄先輩、春日井道場に通う為に中古の(原付)バイクを下の階の春日井ホンダで購入しテ、「3万円もしたンだヨ。ローン組めるか訊いチャったヨォ」
幾ら昭和時代の物価とは云え、30歳を越えたえぇオッサンが3万円ぐらいでローンを組むンじゃない(苦笑)。



【※此の作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、一切関係ありません】