大河ドラマを100倍楽しく見る方法? | 朝倉新哉の研究室

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1982年に発売されてベストセラーになった
『プロ野球を10倍楽しく見る方法』
という本があります。

この本が売れたため、○○を10倍楽しく…とか、××を100倍楽しく…とかいう
タイトルのもの(本に限らず)が、たくさんあったように思います。

大河ドラマを100倍楽しく見れるかどうか、わかりませんが、
黒田家に関して、興味深いトリビアを仕入れたので、
紹介したいと思います。

東京大学史料編纂所の山本博文教授が書いた
『江戸城の宮廷政治』
という本があります。
黒田官兵衛と同時代を生きた細川忠興と、

細川忠興 ウィキペディアより転載

その息子忠利がやり取りした手紙をもとに、江戸時代初期の大名の様子を書いた本です。

細川忠利 ウィキペディアより転載

ですから、黒田家ではなく、細川家の目線で書かれているような感じになっています。

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黒田長政の様子は、江戸の忠利より細かく忠興に伝えられている。

  長政の江戸での奉公ぶりは、一通りではありません。
  そのうえ将軍様も親しくしているように見受けられます。
  よく見ると長政や内藤政長は、並の西国大名などよりも頻繁に拝謁しており、
  城中でも、幕閣のだれとも心安そうな様子です。

江戸城中での立ち居ふるまい、そこで出会う有力者と親しげに話をする
黒田の姿を見るにつけ、忠利は心さわぐのである。
十月六日にも、
黒田は、本多正純ら宿老の屋敷を訪れ、なにごとかを嘆願している、
秀忠が幕府年寄安藤重信・水野忠元とともに長政を居間に召した、
などと長政の行動は逐一追跡、報告されている。

元和期(1615年から1624年まで)の江戸では他家の動向を気にしながら、
まさに「宮廷外交」が展開されていたのである。
忠興や忠利がこれほど黒田家の動向を気にするのは、
互いにライバルの関係にあったからである。

両者とも豊臣恩顧の大名で、
しかも徳川家に取り立てられて国持ちの大大名になっている。
幕府から憎まれないためには、
よりいっそう幕府への接近策をとるしかない立場であった。

そのうえ両者は犬猿の仲であった。
そもそもの起こりは、
豊前六郡を領していた黒田家が、関ヶ原合戦ののち、
筑前五十二万石に加増転封になり、
丹後宮津十八万石の細川家が
豊前に入ってきた慶長五年十一月のトラブルである。

黒田家および家臣たちは、領地の年貢をすでに徴収しており、
それをそのまま筑前に持っていったのである。
忠興は翌年三月、上洛し、家康にこのことを訴え、
「勝手次第」との返答を受けた。
そこで忠興は、黒田家と交渉したが、黒田家は
「すぐには返済できない」という不当な返事であった。
怒った忠興は門司に番船を置き、
筑前からの上せ米(大坂への出荷米)を差し押さえようとした。
こうなると軍事衝突にもなりかねない。
両者と親しい片桐且元と山内一豊が相談し、
家康の部将本多忠勝・榊原康政の両人に仲介を依頼して
返済の年月を決めさせ、黒田から一札を出させた。
そして慶長七年五月、ようやく返済が終わる。

この事件は、細川・黒田両家の関係を決定的に悪化させた。
忠興には、黒田が筑前という大国を拝領したことに対する妬みもあったかもしれない。
とにかく、これ以後、忠興は、
他の大名家の者と細川家の者が行き逢ったとき、
相手が無礼でもこちらは慇懃にすべきであるが、
黒田か肥後の加藤(忠興は加藤清正とも仲が悪かった)の場合はその限りではない、
両人家中がこちらに無礼のあったとき、
こちらから慇懃にすれば「曲事(譴責する)」、
といった命令を出している。
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『江戸城の宮廷政治』 山本博文 講談社学術文庫 より抜粋して引用。
(緑字はブログ主による注)

黒田家と細川家が、犬猿の仲だったというのは、
(犬猿の仲 って出そうとしたら、嫌煙の中 って変換されちゃいました)
この本を読んで初めて知りました。

”黒田細川年貢紛争”。

果たして大河ドラマの中で描かれるのか。
多分ないと思います。
黒田官兵衛が死んだのは、慶長9年(1604年)です。
関ヶ原が、官兵衛最後の仕事、という感じなので、
関ヶ原が終わったところで、長政に対して、
「あとは任せたぞ」
という感じで、終わるのではないでしょうか。
そのあと、静かに余生を送った、とかなんとか。
関ヶ原が終わってすぐ、筑前への移転、年貢紛争、となるので、
実際には、すごく慌ただしかったはずですが。

黒田細川年貢紛争
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