関裕二さんの本を参照すると、
古代の近畿地方の繁栄は、
下の図のような経済圏に支えられていました。
出典:国土地理院ウェブサイト
古代日本の経済圏
1播磨 2難波 3山城(巨椋池)
4近江(琵琶湖) 5角鹿(越)
6丹波(丹後) 7但馬
前回の和邇(わに)氏の記事でも、
応神天皇の恋の歌(というかカニの歌)を引き、
『水運を利用しカニなど海産物を運んでいた』
一族であるということをご紹介しています。
まさに、この経済ルートの一角を担っていた。
和邇氏が力を持っていたのは、
若狭湾→琵琶湖→瀬田川→宇治川→木津川
の水運だったでしょう。
和邇氏について補足すれば、
遣唐使、遣隋使を多く輩出している
典型的な海人系の氏族であったようです。
そして、天皇家に多くの后妃を送り出した
有力な豪族でもありました。
応神天皇以後7代(応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達)
に后妃を送り出したことが残っています。
応神天皇(=ホムタワケ)は、
和邇氏の女の子をカニに見立てて、
後姿が小さな盾みたいでかわいい、
歯並びは椎や菱の実を並べたみたいでかわいい
と詠っていましたからね。
あの口説き文句は成功したんですね(笑)
カニの男がカニの女を見初めた、
ユーモアあふれる恋の歌は。
あの歌を読んでいると、
かわいい女の子と美味しいカニを振る舞われて、
ご機嫌な姿が脳裏に浮かんできます。
和邇氏の担った役割は、
水運・港津管掌、近江統轄でした。
さて、近江のことを考えるうえで、
和邇氏と並び重要なのが息長(おきなが)氏。
息長氏もまた、多くの后妃を排出しています。
応神天皇=ホムタワケの母親、
神功皇后が息長姓であったことを思い出します。
神功皇后=息長帯日売命(オキナガタラシヒメ )
▼息長氏について触れた過去記事はこちら。
息長の一族は、
近江国坂田郡息長を本拠地としていました。
(現・滋賀県坂田郡近江町、米原町)
坂田郡天野川流域には
5世紀末~6世紀後半の息長古墳群があります。
この場所は美濃や古代東山道、
北陸道などの要衝。
琵琶湖に朝妻港をもつ交通の拠点でした。
越や若狭とも通じる、重要な場所です。
息長氏の由来には、
「息が長い」すなわち、
潜水を専門とする海人の名だとする説
があります。
『古事記』によれば、応神天皇の皇子、
若野毛二俣(わかぬけふたまた)王の子、
意富富杼(おおおど)王を氏祖とするようです。
遡れば神功皇后が息長氏であっただけでなく、
応神天皇の后妃も息長を冠する名が見られます。
この応神天皇后妃の父親は、
息長田別王(おきながたわけのみこ)
と言い、ヤマトタケルの子にあたります。
さらに……
応神天皇から5代目といわれる、
越の国からやってきた継体天皇もまた、
息長氏の系統だったという説もあります。
武烈天皇のお世継ぎが途絶え、
王家の血の薄い継体天皇が
越から連れてこられています。
ここで一度、皇統の断絶があったと
言われる所以です。
(王朝交替説)
「継体」というのは歴史編纂の過程で、
後からつけられた名ですので、
跡継ぎ問題があったことが
如実にわかるお名前になっています。
このように、息長氏は古くから、
天皇家との結びつきが強調されている
氏族であるということがわかります。