ピュアホワイト

 

思い出せない。

私って傲慢なのね照れ

 

ああ あった。

本…かな。

人生、

ああやっちまったな、

と思う時や、

どう動くか決める時、

こんな人が居た、

と思うことで

気が休まったり、

きっとできる、と思える。

 

母が亡くなった時、支えになったのは

『鬼龍院花子の生涯』。

これについては既に書いた。

→鬼龍院花子唯一の徳)

端折って言うと、

母は私が会いに行く前日に

デイサービスの日でもないのに

風呂に入りたいと言い出し、

入浴後急逝。

私に会うために入浴したいと

言ったんではないかと思える

心当たりがあった。

がーん…ガーン

入浴したいなんて言わなければ

母は生きていたかも。

私が母を結果的に

死に追いやってしまった、

落ち込まずに済んだのは、

この小説のお陰だ。

表題の女性、鬼龍院花子さんは

実家の侠客業が傾いた後

どんどん落ちぶれていき、

一時は道行く男の袖を引く

ことまでしたけれど、

結局は旅館の下足番に落ち着く。

一人息子は傷害事件で収監中。

明日は息子に面会に行く、と

自慢の髪を洗って就寝、

そのまま亡くなってしまうのだ。

その亡くなった花子の心情を

この小説では

 

「花子も心満ちて冥途に旅立ったのではなかったろうかと松恵は思った。…明日は公休、寛(花子の息子)の好きなものを買って徳島へ、と心弾ませ、自慢の髪を洗い、そのままこの世から去って行った

 

と書く。

そうだよねそうだよね、

お母さん、

ああきれいになったさっぱりした、

これで娘に会えるって、

心満ちて逝ったよね?

と少し気持ちが落ち着いたのだったえーん

 

※夏目雅子さん主演の映画が話題になりましたねー。「舐めたらいかんぜよ!」でございます。(子のセリフ小説には出てきません。)利発さを買われ、土佐九反田の侠客・鬼龍院政五郎の養女となった松恵の生涯を、鬼龍院一家の盛衰、政五郎の実子花子の浮き沈み激しい人生を絡めて描いてます。歯切れよくも美しい文章で、女の情の深さ激しさ慎み深さをこれでもかっていうくらい描いてくれます。読後ほうっ照れとしてしまうー

 

 

何かをするのに躊躇する時に

思い出すのは、

千葉敦子さんの一連の著書。

千葉敦子さんは経済ジャーナリストで、

(筒井康隆『パプリカ』のヒロインじゃありません

実在した女性です)

1987年7月乳がんにて死去。

この方、40を過ぎてから

かねてからの希望通り、

ニューヨークに引っ越す。

独身で、会社に属さぬ

フリーのジャーナリストで、

しかも

乳がんが再発した体で、だ。

 

英語は学校で習わなく

なってから、独学

していたらしい。

だから英語での表現には

堪能な方だったんだろう。

それでも、1983年、

ジェンダー論議もフェミニズムも、
Me Too運動も、

なーんにも無かった頃だ。

男尊女卑は今より一層激しく、深い。

女が1人で外国へなんて、

病気持ちが外国へなんて、

すごい度胸だ、と驚く人も、

本まで出してるのになぜ?と

不思議に思う人もいたけど、

周囲は心配しながらも

励まし、送り出してくれたそうだ。

それから住む所を探し、

(ネットの発達してない時代です。

検索して資料請求、なーんて勿論できない)、

主治医を探し、

仕事を探し、である。

そのへんのご苦労と、

しぶとく強い意志で難題を

解決する様子、

素敵な人々と出会い、アートを楽しむ

ニューヨークでの生活の様子が

『昨日と違う明日を生きる』

に描かれている。

この本の中の見出しの一つ、

「ついにニューヨークに来た!」

という弾むような調子が大好きだ。

この言葉を思い出すと、

乳がんを患って

何の伝手も無い外国に

飛び出す人だって

いるんだ、

私だってこれくらい大丈夫

って言う気になって来る。

元気になってくる。

それに、体調が悪い時、

この人の本を思い出すのだ。

(私は膝痛とか腰痛とか痺れなんだけど)

やりたいことが出来ない時の処し方

みたいなものを考える時、

彼女の闘病と仕事への取り組み方は、

とても参考になる。

 

男尊女卑と闘い、

日本のいろんな不条理と闘い、

はっきりものを言い、

女性のための本を書いた

エンジェルソルジャーのような

彼女の書物は、

時には厳しく私を

打ちのめすこともあるけれど、

彼女の仕事への姿勢と不屈の心は

できるだけたくさんの女子に

知ってほしいな照れ

なんて思う。

 

※亡くなる2か月前までの著者の写真が何枚か挿入されています。やりたい事をやり遂げた人の笑顔は爽やか。

 

 

※下記もぜひ。

朝日新聞が1992年まで発行していた週刊誌「朝日ジャーナル」に掲載された亡くなる前年から2日前までの日記をまとめたもの。アメリカ・日本の政治経済モロモロへの分析・感想、自分の体の衰えを克明につづる。最後に掲載された記事の一部。

「体調悪化し原稿書けなくなりました。

多分また入院です。申しわけありません」

(アメリカ時間1987年7月7日発信、7月24日掲載 7月9日死亡)