鍛冶俊樹の軍事ジャーナル

(2024年9月1日号)

*台湾と朝鮮半島の地政学6

 マゼラン提督率いるスペイン艦隊は、1522年に地球を一周してスペインに帰還したが、マゼラン自身は、後にフィリピンと呼ばれる島々で各部族長と交流し、スペインの主権下に置こうとしたが、その内の一つマクタン島では反発を招き、そこでの戦闘で死亡した。

 ルソン島はフィリピン諸島の最大の島だが、16世紀には日本人町もあった事が知られており、古来から海洋貿易の中継基地として栄えていた。マゼランは、もともとはポルトガルの宮廷に仕えていたポルトガル人で、ポルトガル軍が、東南アジアの貿易の要衝マラッカを1511年に征服した時、海軍士官として従軍していた。

 ポルトガルは当時、ここを拠点に東アジアへと貿易の拠点を拡大しようとしていたから、マゼラン自身、ルソン島について知っていたと思われる。

 当時、ポルトガルとスペインはライバル関係にあり、ポルトガルはインド洋経由で、スペインはアメリカ経由で東アジアの市場を争っていたのである。

 

 1492年、「コロンブス率いるスペイン艦隊が大西洋経由でインドに到達した。」と報告されたため、ライバルのポルトガルは、スペインの西インド航路に対抗する東インド航路すなわちアフリカ大陸南端を迂回してインド洋を経由してインドに至る航路を開拓した。

 これは1498年の事でコロンブスに遅れること6年と思われたが、実際にはコロンブスはインドに到達しておらず、スペインがアジアに到達したのはマゼランの1521年だから、ポルトガルの方がアジア進出においてスペインより進んでいたのである。

 遅れをとって焦ったスペインはマゼランの到達した島々へアメリカ経由で進出を図り、1542年、当時のスペイン国王フェリペ2世に因んでこれらの島々をフィリピン諸島と命名した。

(続く)

 

 軍事ジャーナリスト鍛冶俊樹(かじとしき)

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