こんにちは。『アドラーつちうら・つくば』です。

 

前回の記事で、

 

どちらが正しいか・悪いか、はなくて、

 

悪いものがあるとすれば関係です。

 

と書きました。

 

それについてもう少し。

 

戦争ってどうして起きるのかって、

 

それは違いに勝ち負けをつけようとすること

 

なんだろうなと思います。

 

相手が自分と違っていること、自分が相手と違っていること。

 

所属を究極の目標とする人間には、違いは自分の所属を脅かす脅威なんですね。

 

だから違いを見つけると相手や自分を罰して正そうとします。

 

でも本来みんな違っているんですよね。

 

だから、

 

違う→違いをなくそう

 

ではなく、

 

違う→違ったまま共存共栄しよう

 

という態度でいたいんです。

 

例えば、、、

 

わたしはしばらく娘の言葉遣いがとても乱暴に思えて嫌でした。

 

思春期ってこんなもんかなぁとも思うけど、

 

いざ直面すると嫌なもんは嫌なんです。

 

何年も困っていたし、初めのころは度々陰性感情つきで『そんな言葉遣いよくないよ!』と伝えていました。

 

でもね、仲間や先輩に話を聴いてもらって少しずつ、

 

☆今の娘にはこの乱暴な言葉遣いも生きる手段の一つなんだ。

☆乱暴って捉えるとネガティブだけど、パワーがあるとか元気って捉えることもできるよね。

☆乱暴な表現に目を向けず、ほんとうに言いたいことにはきっと彼女の優しさやよい意図がある。そこに正の注目をしよう。

☆わたしは親として、どんな娘であっても“わたしは”温かで穏やかな言葉遣いをし続けよう。

 

そんな決心を何度も何度もしました。

 

そうして今振り返ると、

 

娘の言葉遣いはずいぶん変わってきたと思います。

 

情緒は安定していて口調も依然とは全く違ってきているし、

語彙は増えて豊かで説得力のある表現ができるようになっているみたいです。

 

あれ?結局娘が変わることを目指していたの?って思われる方がいるかもしれませんが、

 

結果としてこうなったことを重要視するのではなく、大切にしているのはそのプロセス。

 

わたしが『違っていること』をよくないと思い、娘に罰や注意をバシバシしていたら、

 

親子関係はどうなったでしょうか?

 

子どもにとってわたしは、リラックスしてなんでも話せる親にはなれたでしょうか?

 

わたしの言動から、娘は何を学ぶでしょうか?

 

 

 

子育てって、日常でのこんな地味で小さな、でも一つ一つが捨て置けない悩みの山ですよね。

 

その一つ一つについて、

 

“違いを認めず子どもを正そうとする親”から、

 

“違いを認め合える関係を築ける親”

 

になることを、わたしはパセージから学びました。

 

続きは、長くなったのでまた次回に。。。


 

 

アドラー心理学を一緒に学びませんか?

 

 

 

わたしにはお茶の時間も、落ち着いて自分を整える大切な時間です。

 

 

グルテンフリー生活をしているなか、最近米粉ケーキ作りにはまっています。

 

甘味は甘酒、ラム酒で煮たドライフルーツとバナナが入って食べ応えばっちりです。

 

それにしても増田窯、なくなっちゃって本当に残念だなぁ。。

 

世の中によいものが残っていってほしいですね。

 

 

今週も、みなさまが健やかで幸せな一週間を過ごせますようにクローバー