こんばんは
ご訪問ありがとうございます。
最近思うのは、
ほんとうの支配構造というのは、
支配者が無理やり被支配者を虐げているというわかりやすいものではなくて、
支配されることを主体的に選択しているということがある。
というようなこと。
そこには権威があり、褒美があり、排除があります。
罰はわかりやすく罰ではなく、無視や排除というカタチをとることが多いんじゃないかな。
人々はいつのまにか言葉の自由を奪われ、異端になることを恐れ、本来の自分が喜ぶことを忘れ、それにも関わらずそこに自らの意思で喜んで安住するんですね。
権威に依存するものが支配者を養い育てているともいえるし、
またそうなるように支配者は自らを権威づける、ということになります。
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さて、これは何のことかというと、とっても広義なテーマだろうと思いつつ、
せっかくなので子育てに強引に?持っていくことにします。(笑)
わたしは昔、とあるエピソードで野田先生に、
『なんという支配的、管理的育児でしょうね!』
と感嘆符付きで言われたことがあります。(笑)
エピソードの内容は、
ある日の朝、自分が飼っている犬に餌をあげるのを忘れている娘に対し、
わたしは『何か忘れてない?』と陰性感情を持って、問いかけた。
というもの。
本当は(また忘れてるじゃん!)と怒りたかったけど、
感情をぶつけるのを堪えて娘に気がついてもらおうと問いかけた、
自分としては結構がんばってるつもりの対応でした。
なのでこれが支配的と言われて、当時のわたしは大変びっくりしたんですね。
でも、振り返ってみると、やっぱりどうしても納得せざるを得ない。(笑)
『何か忘れてない?』
こう問いかけられるのを娘になって想像してみると、
子どもは何を学ぶか?
「お母さんは正解を知っていて、でも教えてくれない。
わたしはお母さんの知っている正解を探し出して、お母さんの緊張を解かなければならない。」
えーっ!
いやいや、わたしは娘に犬を世話する責任を学んでほしかったのであって、
わたしの緊張を解いて欲しかったわけではないんだけど。
娘はわたしの強面対策で頭がいっぱいになって、犬のことは全然学んでないのかもね(^^;)
あらまぁ。
親が、親であるということを権威づけ、
よいことをしたときにはほめたり褒美をやったりし、
悪いことをしたときは叱ったり無視したり威圧したり脅したりしていると、
子どもはある時期までは本当に、一心に親と仲良くやっていきたいと願うものなので、
これは即座に支配的育児になってしまいます。
親はいつも親子は対等で平等であると思い、
子どもを尊敬信頼感謝して、罰も賞も与えずに子育てしましょう。
というパセージの子育ては、
ごくごく身近な小さな集団から世界最大の宗教にまで及んでいる権威主義への抵抗なのかもしれません。
子どもが健康なパーソナリティを育んでいけるよう、パセージ育児の実践を継続しながら、
自分自身も権威主義的パーソナリティの沼に落ち込まない暮らしを意識していきたいものだと再認識しています。
このところ「動いて学ぶ」ことがストップしているおかげで、
新しい澄んだ視界が得られている気がします。
気だけかもしれないけど。(笑)
ツツジです。
スマートで色も佇まいも美しいですね。
これは名前を聴くのを忘れてしまいました。
小さくて細かな花びらの重なりがとても繊細な美しさです。